Библијата

 

ヨシュア記 5:2

Студија

       

2 その時、はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」。

Коментар

 

おとうさん

  
Rudolf von Arthaber with his Children, by Friedrich von Amerling

御言葉の中の父とは、最も内面的なものを意味し、主の命令に従っているものにおいては、良いものを意味します。最高の意味での父とは、創造者である主ご自身を意味します。自然な子供の世代では、魂、すなわち生命の最も内側にある受け皿と内的な遺伝を提供するのは父であり、魂が体を形成するために使用するすべての物質と外的な遺伝を提供するのは母です。この過程において、魂は父を通して主から来るのであって、父から来るのではありません。

賢い人が主を父と呼び、教会を母と呼ぶのは、その人の内面の愛が主から来たものであり、教会が教える真理によって形と実を与えられているからです。このようにして生まれたものが、その人の霊的な「子供」なのです。

新約聖書では、イエスと父について語るとき、意味するのは、内なる魂としての神そのものが外に現れているということです。イエスは自然な母から生まれたので、自然な体とユダヤ人の遺伝を持っていました。地獄に誘惑されていた彼の人生を通して、彼はゆっくりと母親から持っていたものをすべて捨てて、ご自身の内なる御父から持っていたものに置き換えていきました。そうすることで、彼は自分の内側にある父と一つになり、「私と父は一つである」と心から言えるようになったのです。

(Референци: 啓示による黙示録解説170; 天界の秘義1815, 3703 [4]; 神の摂理330 [1,2]; 真のキリスト教103 [1,2])

Од делата на Сведенборг

 

天界の秘義 #1815

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1815. 「かれに言われた。わたしはエホバである」とは、エホバにまします主の内部人間を指し、その感知力を言います。主はエホバによってみごもった方だからこそ、ご自身の中にエホバがましまし、しかも主の内部は、おん父から受けたすべてであったということは、随所で記しました。

人は父から受け取るものと、母から受け取るものは別々です。父から受け取るものは、すべて内部のものです。霊魂自身すなわち〈いのち〉は父からです。それにたいし、母からは外部のものを受け取ります。換言すれば、父からはより内部にある人間、すなわち霊自身を受け取り、母からはより外部にある人間、すなわち肉体自身を受け取ります。霊魂自身は、父によって植え付けられ、それが卵子内で肉体の〈かたち〉をとり始めます。また卵子や子宮内にあって備わっているものは母からです。内部の成長はそれ以外からはきません。

② それで主の内部がエホバにましますことが分かります。なぜなら、主が母から受けた外部は、エホバである神と一体になるはずでした。前述したように、それは、誘惑とそれへの勝利を通して行われました。ただエホバが語られるさい、それがあたかも他者との語らいであるかのように見える状態でした。しかもその一体化への程度に応じ、ご自分の中での応答のような語らいになりました。

主が経験された感知は、人として生まれたいかなる人間にもまして完璧で、それはご自身の内部から、すなわちエホバご自身からのもので、それがここで言われている「エホバはかれに言われた」の内的意味になります。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.