聖書

 

Josua 24:5

勉強

       

5 Und ich sandte Mose und Aaron und schlug Ägypten, so wie ich in seiner Mitte getan habe; und danach führte ich euch heraus.

解説

 

怖い

  
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未知への恐怖」と「変化への恐怖」は、どちらも共通の考えであり、私たちが自然な生活の中で持ちがちな恐怖の広い範囲をカバーしています。ある意味では、聖書の中で人々が「恐れている」と表現されているときの霊的な意味の背後にも、これらの恐れがあります。

(参照: 天界の秘義223-224, 2215, 天界の秘義6849; 出エジプト記3:6; 創世記3:10, 18:15)


書物によると、人々は、より高尚で、より内的な霊的状態が、より低く、より外的な状態と通信してきて、その状態を改革し、昇格させる必要があることを示したときに恐れているように記述されています。それはクリスマスの物語の中の羊飼いの真実であり、天使が全く新しい霊的な時代のことを彼らに伝えるために来たときに最初に恐怖を持って反応します。それは燃える茂みでのモーセ、はしごのビジョンの後のヤコブ、ガリラヤ海の上を歩いているイエスを見た弟子たちにも当てはまります - 高次の状態が彼らに手を差し伸べ、霊的な人生の新しい段階を受け入れるように求めていたすべてのケースで。

これはまた、悪と誤った思考の状態が霊的なものに接触し、自分の惨めさの啓示に脅かされていると感じるとき、より否定的な意味でも保持されています。

聖書はまた、神を恐れる人々についても頻繁に語っています。

(参照: 天界の秘義2543, 3718, 5534, 5647, 5662, 6569; 啓示された黙示録677 [4])

スウェーデンボルグの著作から

 

天界の秘義#3718

この節の研究

  
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3718. 「かれは恐れて」とは、聖なる状況変化を意味します。連綿として続いている事柄から明らかなように、「恐れ」は、聖なる状況変化を意味します。なぜなら、「ここは、なんと恐るべき所だろう。これは神の家であり、これは天の門である」という言葉には、聖なる状況変化が含まれているからです。「恐れ」の内的意味については、2826節を参照してください。

一般的に言えば、聖でない恐れと、聖なる恐れの二種類があります。聖でない恐れとは、悪人が浸っている恐れのことで、聖なる恐れとは、善人が浸っている恐れです。後者の恐れ、すなわち善人の浸っている恐れは、聖なる恐れ(畏敬)とも言われ、神への賛嘆の恐れであり、愛の恐れです。聖なる恐れの欠けた愛は、無味乾燥で、塩気のない食べ物のようで、味わいがありません。それにたいし、恐れをともなった愛は、塩が入っていながらも塩味ではない食べ物のようです。

愛に属する恐れは、主のみ心や隣人、愛と信仰の聖性、信心の聖性を、それなりに傷つけまいとします。しかしその恐れは、種々様々で、人によってみな違います。一般的に言って、人に善と真理への愛があれば、それだけ善と真理を傷つけまいとする恐れがありますが、外見上は、恐れのようには見えません。しかしながら、善と真理への愛が少なければ、それだけ愛にともなう恐れも少なくなります。そしてそれだけ愛としてでなく、恐れとして映り、その結果、恐れは地獄の恐れになります。

善や真理への愛がないところでは、聖なる恐れもありません。ただ名誉、利得、名声を目指して、それを失う恐れがあり、罰や死の恐れもあります。このような恐れは、外的恐れであって、とりわけ肉体や自然的人間と、その考えに影響を及ぼします。それにたいし前者の恐れ、すなわち聖なる恐れは、格別、霊すなわち内部人間と、本人の良心に影響を及ぼします。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.