Bible

 

創世記 43:20

Studie

       

20 「ああ、わがよ、われわれは最初、食糧を買うために下ってきたのです。

Komentář

 

  
by Jenny Stein
baby feet and adult hands

私たちの足は、私たちの体の中で最も低い部分であり、非常に有用なものです聖書では、足は私たちの霊的自己の最も低い部分であり、最も実用的な部分である「自然」のレベルを表しています。人生のこの日常的な側面は、日常的なタスクや要求、そしてそれらに関連した思考に関わっています。それはひどく深いものでも内省的なものでもありませんが、それは有用です - ちょうど足のように。

この対応関係は、主と教会共同体にも当てはまります。主の神聖な自然は、比較的単純な従順を通して私たちを導いてくれます(十戒と二大戒を考えてみてください)。教会もまた、単純ですが具体的な方法で共同体に奉仕する自然なレベルを持っています。

(Odkazy: 啓示による黙示録解説49, 510; 天界の秘義2162, 3147 [1-2], 3761, 4302 [6], 6844 [1-2], 9406, 10087)

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天界の秘義 # 2162

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2162. 「あなたがたは足を洗って」とは、当時身に帯びていた状態のまま、自然的な事柄をよりよく感知できるようにという意味です。「足」が自然的なものを意味するとともに、事柄の流れからも明白です。

ここに秘義が隠されていることは、アブラハムのしたことからある程度分かります。すなわちかれは、三人の男性に向かって、少量の水を使って足を洗い、木陰で休むように懇願しましたが、実際それが主であり、エホバにましますことを知っていました。そうでなければ、このようなことは記録されなかったはずです。

② 「足」が自然的なものを指していることは、来世にあっての表象物や、それに由来する最古代人のもとでの表象物、さらには〈みことば〉にあることからも分かります。

「頭」とか頭部にかんする事柄は、天的なものや霊的なものを表象します。「胸」や胸部にかんする事柄は、合理的なものとか、合理的なものに関係あることがらを表象します。「足」や足にかんする事柄は、自然的なものや自然的事物にかかわるものを表象します。したがって、「足の裏やかかと」は、最低の自然的なものを表すことは、前259節を参照してください。なお「履物」は、あらゆるものの中でも最低の汚れたものです(1748節)。

③ 預言者が見た夢や幻でも、同じような表象があります。

「ネブカデネザルが見た像は、その頭は良質の金、胸と腕は銀、腹と腿(もも)は青銅、脛(すね)は鉄、足は一部は鉄一部は粘土でできていた」(ダニエル 2:32,33)。

上掲で「頭」は、内奥にあり金でできており、天的なものを指しています(113,1551,1552節参照)。「胸と腕」は、銀でできており、霊的なものと合理的なものを指しています(1551節)。「足」は、低いところにあり、自然的なものを、「鉄」はその自然的真理を表わします。また「青銅と粘土」は善を指し、「鉄」はその真理で(425,426節参照)、「粘土」は善を表わし(1300節)、両者とも、ここでは自然的なものです。天界における主のみ国、地上における主のみ国、すなわち教会、また主のみ国である個々の人々の中では、以上のものが相前後して連なっています。

④ 同じように、ダニエルが見た幻では、次のようです。

「わたしは目をあげてみた。するとひとりの人がいて、亜麻布の衣を身につけ、ウパズの金製の帯を腰にしめていた。その身体は緑柱石のよう、その顔は電光のよう、その目は燃える灯火のよう、その腕と足は、磨きがかった銅のようであった」(ダニエル 10:5,6)。

以上は、とりわけ善と真理の面で、〈みことば〉の内部を指しています。「腕と足」とは、文字上の意味に属する外部です。そこには自然的なものから取られたため、自然的なものがあります。その他、腰、身体、顔、眼など、人にある数々のものが、それぞれ何を意味するかは、来世での表象物から分かります。それについては、主の天界を表す巨大人について、また精霊界における表象物について触れるときに、神なる主の慈しみに頼って後述することにします。

⑤ 次のようにあります。

「モーセ、アロン、ナダブ、アビウ、それに七十人の長老たちは、イスラエルの神を見た。そのお方の足元には、サファイアの敷石のようなものがあり、純粋さの面で天界の実体のようであった」(出エジプト 24:9,10)。

かれらが見たのは、ただ教会の外部で、自然的なものに表象されています。

それと同時に、〈みことば〉の文字上の意味を表わしており、そこでは前述のように、外部が自然的なものによって表象されています。「足」については、足元がサファイアの敷石のよう、天界の実体のようです。かれらが眼前にしたのは主でしたが、それはただ下級のもの、自然的なものの中でしか見えませんでした。だから「イスラエルの神」とあります。

教会に属するものはすべて、その神を表象し、内的意味での〈みことば〉はすべてその神を意味します。主は、当時示された意味にしたがって見えるものとなられました。ヨハネの書にある白い馬に乗った男性がそうです。それが〈みことば〉を指すものと明言されています(黙示録 19:11,13)。

⑥ エゼキエルの見た動物はケルブ天使でしたが、他にも多くの箇所にあるように、自然的なものとして顔や翼を描くことで、天的なもの・霊的なものを示しています。

「その足はまっすぐで、足の裏は、子ウシの足の裏のよう、磨きのかかった青銅のように、輝いていた」(エゼキエル 1:7)。

足が「磨きのかかった青銅のように輝いた」と言われています。つまりこれは、自然的なものです。「青銅」とは自然的善を意味するものだからです(425,1551節参照)。同じように、ヨハネに現れました。

「人の子のようであり、・・・目は燃える炎のようであり、光り輝く真鍮のようであった」(黙示録 1:14; 2:18)。

「足」は自然的なものを表すことは、後述することで明らかになります。

⑦ ヨハネの書には、次のようにあります。

「かれは強い天使が、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭に虹をいただき、その顔は太陽のようで、その足は火の柱のようであった。かれは、開かれた小さな書を手に持っていた。右足は海の上を、左足は地の上を踏んでいた」(黙示録 10:1,2)。

同じく天使は〈みことば〉を指しています。「その頭に虹をいただき、その顔は太陽のようで」とあるのは、内的意味がもつ性格を示します。「足」は外的意味、すなわち文字上の意味です。「海」は自然的真理を、「地」は自然的善を示します。それで、「右足は海の上を、左足は地の上を踏んでいた」とはどのような意味か分かります。

⑧ 〈みことば〉では随所に、「足台」とありますが、これが内的意味はどうなのかは知られていません。イザヤ書には、次のようにあります。

「エホバは言われる。天はわが王座、地はわが足台である。あなたがたはわたしのために建てる家はどこにあるのか。わたしが休める場所はどこなのか、と」(イザヤ 66:1)。

「天(または諸天界)」とは、諸天界における主のみ国、および地上における主のみ国、すなわち教会、その両者にある天的なもの・霊的なもの、しかも内奥にあるものです。それは同時に、主のみ国すなわち教会である一人ひとりの人間にもあります。また同時に、天的なものや霊的なものは、それ自身として見た場合、愛と仁愛とそれに由来する信仰に属するものです。したがって、内的信心に属するすべて、〈みことば〉の内的意味に属するすべてです。

これこそ「諸天界」で、「主の玉座」と言われます。

それにたいし、「地」は以上に対応するすべての下級なものです。例えば、下級の合理的なもの、自然的なものがそうですが、それらについては、相応から天的なものや霊的なものを当てはめて考えます。それは下級の天界にあるもの、教会にあるもの、外的信心の中にあるもの、〈みことば〉の文字上の意味にあるものなどです。

一言でいうなら、内部から発出して、外部の中に出現するものすべてです。以上は自然的なものですから、「地」または「主の足台」と言われます。〈みことば〉の内的意味で、天や地にはどのような意味があるかは、82,1733節を参照してください。新しい天と新しい地については、2117,2118節を参照してください。人が天界の雛型であることについては、911,978,1900節を参照してください。

⑨ 同じくエレミヤ書には、次のようにあります。

「主は怒り、シオンの娘を暗雲でおおわれた。主はイスラエルの輝きを、天から地に投げ落とされ、ご自分の怒りの日に、その足台を心に留められなかった」(哀歌 2:1)。

またダビデの書には次のようにあります。

「われらの神であるエホバをあがめ、その足台に膝をかがめよ。エホバは聖なる方である」(詩篇 99:5)。

同じく、

「わたしたちは、その方の住まいに入り、その足台に膝をかがめよう」(詩篇 132:7)。

「神の家」または「神殿」とは、表象的な外的信心を指しています。ユダヤ人たちはそれを知らないまま、表象的教会の中で、神の家または神殿が、足台であると考えていました。ユダヤ人たちは、「天」あるいは「神のみ座」が、教会の内的なものを指しているのを知りませんでした。

⑩ 同じくダビデの書にあります。

「エホバは、わが主に言われる、『わたしは、あなたの敵をあなたの足台にするまで、わたしの右に座りなさい』と」(詩篇 110:1マタイ 22:44マルコ 12:36ルカ 20:42,43)。

上掲での「足台」は、感覚上の自然、および科学知的自然を指しますが、そこから人の合理性も意味するようになります。この合理性は、信心を倒錯させると、〈みことば〉の文字上の意味で、いわゆる「敵」になります。そうなると、信心も外部だけのものになり、信心が失われるか、内部が汚されるかします。これについては、1094,1175,1182節を参照してください。

信心が倒錯されたり、汚された場合、「敵」と呼ばれます。ただし信心そのものは、本質上、内的信心にかかわっています。したがって、それが原状復帰した場合、前述のように、外的信心の上でも、〈みことば〉の文字的意味上でも、「足台」になります。

⑪ イザヤ書には、次のようにあります。

「レバノンの栄光は、あなたのもとに来るであろう。樅(もみ)、松、つげの木と共に、わたしの聖所を飾るためである。わたしは、わたしの足を置く場所に誉れを帰する」(イザヤ 60:13)。

上掲箇所は、主のみ国と教会がテーマになります。「レバノンの栄光」すなわち「糸杉の栄光」とは、天的・霊的なものを指し、「樅」、「松」、「つげ」は、天的・自然的なものを指します。これは〈みことば〉の他の箇所にもあるとおりです。

それで、「わたしは、わたしの足を置く場所に誉れを帰する」とは、外的信心にかかわることです。樅、松、つげという樹木によって、名誉を受けるというのでなく、その意味する事柄によって、名誉を受けると言っています。

⑫ 「足」がそれを意味していることは、ユダヤ教会における表象的なものから分かります。

「アロンとその子たちは、幕屋に入る前、手と足とを洗うことになっている」(出エジプト 30:19,20; 40:31,32)。

上掲で秘義的なものを表象していることは、だれにでも分かります。手や足を洗うのは、外的な動作に過ぎません。内部の清めとか浄化でなければ、意味がありません。手足を洗うことで、内部が清められたり、浄化されたりするものではないからです。当時の教会の祭儀は、すべて天的・霊的なものを含む内部を指していました。ここでの外的信心の清めもそうです。外部には内部が含まれているからこそ、清くなったと言えます。

当時の洗い鉢は、青銅で作られていました。「青銅の海」といわれたほど、大きなものでした。ソロモンの神殿の周りには、青銅でできた小型の洗盤が十個ありました(列王記上 7:23,38)。青銅は外的信心の善を表象します。それは自然的善に該当します。「青銅」が意味することは、425,1551節を参照してください。

⑬ 次もまた同様に表象的です。

「アロンの子孫で、・・・足の折れた者、手の折れた者は、エホバに火祭をささげるため、近づいてはならない」(レビ 21:19,21)。

「足の折れた者、手の折れた者」とは、倒錯した外的信心の中にいる人々を表象しました。

⑭ 「足」は自然的なものを指します。モーセの預言にもあるように、これは預言書の中で、随所に示されています。

「アセルは、息子たちにまさって祝福される。かれは兄弟たちに受け入れられ、その足を油にひたす。あなたの履物は、鉄と青銅である」(申命記 33:24,25)。

上掲では、油、足、鉄、青銅、履物にある内的意味を知らなければ、理解できないでしょう。「足」は自然的なものを指し、「履物」は感覚的・物体的な性格で、いっそう低い自然的なものを意味します(1748節を参照)。「油」は天的なものを意味し(886節)、「鉄」は自然的真理を指し(425,426節)、「青銅」は、自然的善を指します(425,1551節)。以上で、その意味が明らかになります。

⑮ ナホム書には、次のようにあります。

「エホバの道は、つむじ風と嵐の中にあり、雲はその足の塵である。」(ナホム 1:3)。

「足の塵」とは、人に備わっている自然的・物体的なものを指し、そこから雲が出ます。ダビデの書にある次の例には、同じような意味があります。

「エホバは、天を垂(た)れて下られ、暗やみがその足の下にあった」(詩篇 18:9)。

⑯ 〈みことば〉では、動物の足やひづめは、自然的光明によって歪(ゆが)められた諸善と信仰上の諸真理を表わします。水はかき乱され、食糧は踏みつけられます。エゼキエル書にあります。

「あなたは川の中に入り、足で水をかきまぜ、川を踏んで濁す。・・・わたしは大量の水で家畜を全滅させる。人の足も家畜のひずめも、これ以上乱さないであろう」(エゼキエル 32:2,13)。

上掲はエジプトを焦点においています。エジプトが知識を意味することは、1164,1165,1462節で触れました。「川や水を乱す足、およびひづめ」とは、感覚的・自然的なものに由来する科学知を指します。科学知に基づいて信仰の秘義に詭弁的推論を働かせ、それで理解が得られないなら、信じませんから、結局は信じません。詭弁的推論を重ねれば、それだけ信じなくなります。これについては、128-130,215,232,233,1072,1385節を参照してください。

〈みことば〉に出てくる「足」は、自然的なものを意味し、それがここではっきりします。これ以上は、順を追っての説明で明らかになります。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.