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そしてエサウは言った、「さあ、立って行こう。わたしが先に行く」。
聖書の中で一人でいるということは、悪や偽りの影響から解放されていることを表しています。だからこそ、主は祈るために孤独を求め、イスラエルの国がしばしば "一人で住んでいる "と表現されるのです。
(参照: 天界の秘義138, 139, 天界の秘義4273, 天界の秘義8689; 出エジプト記18:14; 創世記2:18, 32:24; 詩編102:7, 136:4; The Inner Meaning of the Prophets and Psalms 352, 386)
alone」が所有権に言及して使われるとき、つまり何かが「彼と彼だけのもの」であるとき、意味はよりリテラルなものになります。
139. 古代において、一人で住むとは、天的人間のように、主によって導かれる人のことでした。かれらを冒す悪も悪霊も存在しませんでした。他民族を追放してひとり住むことは、ユダヤ教会では天的人間の表象でした。したがって、〈みことば〉の随所で、主の教会がひとりで存在すると言います。エレミヤ書を見ると、
「立ちあがれ。安心して住んでいる静かな民を攻めよ。・・・かれらは門も閂(かんぬき)もなく、一人離れて住む」(エレミヤ 49:31)。
預言者モーセによると、
「イスラエルは安心して住んだ、ひとり離れて」(申命 33:28)。
「ああ、ひとり住む民よ、民族の中に数えられていない」(民数 23:9)。
ここでの「民族」は、悪い人たちを指します。最古代教会の子孫は、ひとりで住むのをいやがりました。天的人間のように、主によって導かれるのでなく、ユダヤ教会がそうであったように、民族の仲間入りをすることを願いました。それを憧れ求めましたから、「人がひとりでいるのは、よくない」と言われます。憧れ求める人間は、すでに悪の中にいます。そしてそれが許されます。