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ヨシュア記 3:9

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9 ヨシュアはイスラエルの人々に言った、「あなたがたはここに近づいて、あなたがたの主の言葉を聞きなさい」。

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ジョシュア3の意味を探る

Napsal(a) New Christian Bible Study Staff, Julian Duckworth (strojově přeloženo do 日本語)

ジョシュア第3章:イスラエル人はヨルダン川を渡る

この章では、イスラエル人は奇跡によってヨルダン川を渡ります。川の水は足を止めて、乾いた地面を作ります。この奇跡は、旧約聖書で出エジプト記の紅海を渡ることから何度も起こります。そして、これから見るように、それは私たちにとっても意味があります。

イスラエルのすべての人々はヨルダン川の端に移動し、キャンプします( 天界の秘義6537)。その後、いくつかのコマンドが与えられます:箱舟を運んでいる司祭が最初に移動するのを見るときだけ移動する。箱舟から遠ざけるため。自分自身を奉献する;各部族から1人ずつ、12人の男性を選びます。司祭は、箱舟を人々の前に運び、川の水に足を踏み入れるように言われます。

再生の作業において、これらの詳細な指示は私たちにとって重要です。詩の終わりに ヨシュア記3:4  「これまでにこのように合格したことはありません」という非常にわかりやすい言葉があります。事実、私たちはそうではありません。再生の仕事は私たちにとって新しいものであり、まだ経験していないものに連れて行ってくれます。箱舟が先に進むのを見ると、ビジョンと目標に主の命令と真理を保つ必要性が描かれます。

箱から遠ざけることも重要です。何をすべきかという見方と、私たちがしなければならないことについての主の見方を混同してはならないからです。天界の秘義6724)。

テキストは、「近くに来ないでください。あなたが行かなければならない方法を知っているかもしれません。」 (ヨシュア記3:4)人々はまた、自分自身を奉献し、自分自身を聖にするように言われます。これには、私たちの心を清め、神に反するものの行動を洗うことを意味する洗濯が含まれるでしょう。

人々に与えられる最後の命令は、各部族から1人ずつ、12人の男性を選ぶことです。これは、ヨルダン川から12個の記念石が取り出される次の章で重要になります。

箱舟を運んでいる司祭たちは踏み込んで濡れるように言われます。私たちにとって、これは私たちの神への献身と私たちの最高の意図(私たちの「司祭」)がヨルダン川の流れる水と接触しなければならないことを意味します(最初の精神的な真実、最初はヨルダンは境界です)。

司祭がこれを行うと、水はすぐ上流で止まり、司祭が静止している間に誰もが安全に渡れるように乾燥した地面を作ります( 天界の秘義1664[7])。私たちの神への献身が私たちの人生の神の真理と一致し、団結するとき、私たちは天国の理想を持ち、私たちは今前進します。 (生命の教義55[3])。

9から13節で、ヨシュアは人々に今やっていることを思い起こさせます。彼らはカナンに向かっています。「生きている神はあなたの中にあり、彼は間違いなくカナン人、ヒッタイト人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブス人を追い出します」。 、私たちが神に属する前のように、私たちの人間性のトリックと欺ce。 「見よ、全地の主の契約の箱は、あなたの前でヨルダンに渡る。」

この章は私たちの最初の行動であり、再生または新生の開始時に解決します。ここからあそこまで私たちを連れて行き、二度と戻りません。それは私たちの人生の一方から他方への移行です(天界の秘義7779[3])。そしてイスラエルは皆、乾いた地面を渡りました。多くの部分があるので、私たち一人一人は「すべてイスラエル」です。私たちは愛し、考え、信じ、価値を持ち、行動し、有益なことをし、共有し、働き、遊びます。そして、これらすべてと他の多くは、先にある私たちの精神生活の一部になります。

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天界の秘義 # 1664

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1664. ここでの「戦い」は、前述したように、その内的意味から見て霊的戦いであり、試練・誘惑を指します。とりわけ預言者が口にする場合、〈みことば〉で「戦い」には、それ以外の意味はありません。人間同士の戦いは、〈みことば〉の内的意味から見ると、何の意味もありません。人間同士の戦いは、〈みことば〉独特の霊的・天的な事柄ではないからです。〈みことば〉で「戦い」とは、悪魔との戦い、また地獄との戦いを意味することは、とりわけ次の箇所から明らかです。他にも多くの参照箇所がありますが、まずヨハネの書です。

「デモンの霊たちは、かの偉大なる全能の神の日に、地の王たちと全世界の王たちのもとへ戦いに集まるよう印を行った」(黙示録 16:14)。

上掲では、偉大な全能の神の日に、戦争が起こるとは人は考えません。

② 同じく、

「淵からのぼってきた獣は戦うであろう」(黙示録 11:7)。

「淵」とは地獄のことです。同じく、

「龍は、女にたいして怒りを燃やし、神の戒めを守り、イエス・キリストを告白する女の子孫の残りの者たちに、戦いを挑むために出て行った」(黙示録 12:17)。

「かれらは聖徒たちと戦うことが許された」(黙示 13:7)。

「戦い」とは、すべて試練・誘惑の性格をもっています。「南と北の王たちの戦い」、ダニエル書第8章および第11章にある戦い、それからミカエルとの戦い(ダニエル 10:13,21; 12:1黙示録 12:7)は、同じ戦いです。

③ 戦いにはそのような意味があることは、他の預言書からも分かります。エゼキエル書には、次のようにあります。

「あなたがたは、エホバの日の戦いに耐えるため、城壁の破れ口に上らなかったし、イスラエルの家を守る石垣を築かなかった」(エゼキエル 13:5)。

上掲は預言者たちについて言及したものです。イザヤ書には、次のようにあります。

「かれらは剣を鋤(すき)に打ちかえ、槍を鎌に打ち直す。民族は民族にたいして戦いをすることなく、いまや戦いについては学ばない」(イザヤ 2:4)。

「剣、槍、盾」その他多くのものが戦争の武器に使われていますが、上掲の〈みことば〉では、霊的戦い以外の意味はないことは明らかです。

④ 同じく、

「テマの地の住民よ、渇いた者に水を持って行き、逃亡者にはパンをもって出迎えなさい。かれらは剣と、振り上げた剣と、張った弓と、激しい戦いを前にして逃げてきたからである」(イザヤ 21:14,15)。

エレミヤ書には、次のようにあります。

「牧者とその群れは、シオンの娘のところに来る。かれらは娘のまわりに天幕を張り、群れはそれぞれ自分の場所で養われる。娘に対して聖戦をいどめ。昼間に立ち上がれ。われわれはのぼっていく」(エレミヤ 6:3-5)。

上掲では、同様の意味での戦いです。なぜなら「シオンの娘」すなわち教会に対抗する戦いだからです。

⑤ 同じく、

「讃美の町、わたしの喜びの町は、捨てられないわけがあろうか。それで若者たちはその大路で倒れ、その日には戦士はすべて滅ぼされる」(エレミヤ 49:25,26)。

「讃美と喜びの町」とは教会に属する事柄を指します。「戦士」とは、戦う者らです。

⑥ ホセア書には、次のようにあります。

「その日にあたって、わたしは野のケモノ、空のトリ、地に這うものと契約を結ぶ。弓、剣、戦いを地から断つ。そしてかれらが安心して横になれるようにする」(ホセア 2:18)。

上掲では、「戦い」はぶつかり合いを意味し、「戦いのための様々な武器」は霊的戦いにかんするものを意味し、「断つ」とは、欲望と偽りが鎮まり、平和の静けさの中に入る場合です。

⑦ ダビデの書には次のようにあります。

「エホバのみ業を見なさい。エホバは地に孤独の静けさを置かれた。地の果てにいたるまで、戦いを止めさせ、弓を折り、槍を砕き、戦車を火にくべられる。」(詩篇 46:8,9)。

同じく、ダビデの書には、次のようにあります。

「神の住居はサレムにあり、神の住まいはシオンにある。そこで神は、弓の火矢を折り、盾、剣、戦いを止めさせられた」(詩篇 76:2,3)。

「祭司たち」は主を表象します。そして主おひとりが人のために戦われます。「かれらの職務は兵役と呼ばれる」と、民数記 4:23,35,39,43,47にあります。

⑧ 人にはそう見えなくても、誘惑にあたって、人の中で悪魔と戦い勝利されるのは、主でありエホバおひとりでることは、恒久の真理として言えます。悪霊たちは、主の許しがなければ、人に害を及ぼすことは絶対できないし、主によらなければ、天使たちでも、かれらには決して抵抗できません。あらゆる戦いに耐え、しかも勝つことができるのは、主おひとりの力です。イスラエルの子らが諸民族と戦ったことでそれが随所で表象されています。モーセの書にもあります。

「あなた方の神エホバがあなた方の前を歩き、その方ご自身が、あなた方のために戦われるであろう」(申命記 1:30)。

同じく、

「あなた方の神エホバは、あなた方とともに歩み、あなた方を救うため、その敵と戦われる」(申命記 20:4)。

またヨシュア記 23:3,5にもあります。

⑨ カナンの地で、その偶像崇拝者に対抗する戦いは、すべて主の地獄との戦いを表象しています。それはご自身の教会の戦いであり、教会のメンバーの戦いです。イザヤ書には、次のようにあります。

「羊飼いが大勢でけしかけても、ライオンや若いライオンが獲物をつかまえて吼え、羊飼いらの声に屈しないのと同じく、大能のエホバはシオンの山とその丘の上に、戦いのために下ってこられる」(イザヤ 31:4)。

⑩ またエホバすなわち主は、モーセの書にあるように、「戦士」と言われています。

「エホバは戦士である。その名はエホバである」(出エジプト 15:3)。

同じくイザヤ書には、次のようにあります。

「エホバは勇士のように出て行く。戦士が熱情を奮い立たせるように、ときの声をあげて叫び、敵軍に勝るものとなる」(イザヤ 42:13)。

戦いに関することで、主に帰せられるものがたくさんあります。「ときの声を上げて叫ぶ」などがそうです。

⑪ また霊や天使たちも戦士と呼ばれますが、これは表象です。ヨシュア記には次のようにあります。

「ヨシュアが目をあげて見た。すると、見よ、そこに一人の男がこちらに向かって立っており、抜き身の剣を手にしていた。・・・そしてヨシュアに向かって、わたしはエホバの軍勢の長である、と言った。ヨシュアは顔を地に伏せた」(ヨシュア 5:13,14)。

ここでも見えたものは表象的です。それでヤコブの子孫は、自分たちの戦いをエホバの戦い と呼びました。

⑫ 同じく、古代教会では「エホバの戦い」という書名の本が存在したことは、モーセの書にあります。

「エホバの戦いという書に記されている」(民数 21:14,15)。

この戦いは、本章に記されている戦いと大差はありませんが、教会の戦いを意味しています。当時はこのような記述法が普通でした。当時の人たちは、準内部人間であったし、より高尚なことを考えていました。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.