スウェーデンボルグの著作から

 

天界と地獄#487

この節の研究

  
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487. 人が死んでから、本人の自然的よろこびは霊的よろこびに変わっていきます。ただ相応の知識によらなければ、霊的よろこびがどんなものかは、はっきりしません。一般的に、相応の知識によって、自然的なものは、例外なく、霊的なものに相応している事実を教えられます。同時に、相応とはどんな性格をもつか、個々にわたって教えてくれます。

したがって、その知識をもっていれば、死んだのちの自分の状態がわかります。つまり前述にあるように、自分の愛を知り、それがすべての愛に、あまねくかかわる主調愛の中で、どんなふうになっているかを知ればいいわけです。

ところが自己愛をやどしている人は、自分の主調愛を知ることができません。なぜならエゴを愛し、自分の悪を善と言い、さらに自分が心で温め、自分の悪を保証する偽りを、真理と言うからです。しかしそれも、本人の望み次第、英知ある人に聞けばわかることです。自分では見えないものが見えてきます。しかしこれも、知恵者の教えを全部はねつけるほど、自己愛で養われた人の場合は、不可能です。

2. 天上の愛をやどしている人は、教えを受けいれます。しかも自分の生来の悪を自分のなかに感じれば、すぐ真理とちがうことがわかります。真理は悪をあらわにするものです。〈善に由来する真理〉から、〈悪とその偽り〉を見抜くことは、だれでもできますが、悪から善や真理を見抜くことはできません。悪の偽りは暗闇であり、暗闇に相応しているからです。

したがって、悪を根とする偽りのうちにいる人は、視力を失った人のようで、光の中にあるものを見ず、ふくろう,梟のように光を避けます。それにたいし、〈善に由来する真理〉は光であり、光に相応しますから(126-134節参照)、〈善に由来する真理〉をやどしている人は、見ることができます。目を見開いて、光と闇にあるものを見わけます。

3. これも経験で納得できました。天界の天使たちは、自分の中にときとして起こってくる悪や偽りを見て感じとります。すでに精霊界で地獄とつながっている霊がいて、悪や偽りをやどしているのを、天使たちは感じとっています。ただし当の霊自身は、自分の悪や偽りが見えません。天上的愛の善とは何か、良心とは何か、誠実や正義とは何かなど、自分のためでなければ、意味がわからず、主に導かれるなども、何を言っているか分かりません。かれらは、そんなものは存在しないと言い、考えるに値しないと思っています。

人は自分を吟味し、自分のもつよろこびから、自分の主調愛を知り、さらに相応の知識を用いれば、それだけ自分の死後の状態が明らかになります。それを知っていただくために、以上を記しました。

  
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スウェーデンボルグの著作から

 

真(ほんとう)のキリスト教#410

この節の研究

  
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410. 仁愛は、善意として、内部人間のうちにあり、それが善行となって外部人間に現れます。だからこそ、内部人間は愛されるべき存在であり、それに伴って、外部人間も愛されなくてはなりません。ということで、人間は、その本人が宿している善の性格に応じて愛されなくてはなりません。善そのものが、本質的に最も近い隣人なのです。

例をもって示しましょう。ある人が三、四人の中から、自分の家の執事とか、家僕を選ぶとします。そのときは、人の内部を見て、まじめで誠実な者をえらび、その人を愛するのではないでしょうか。国王や知事が、三、四名の中から、ある職務に人を任じるときもそうです。顔がどうあれ、言うことなすことが気にいろうがいるまいが、適任者を選び、不適任者をことわります。

(2) ただし、人は皆、隣り人であるだけでなく、いろいろな人がいて、その相違も限りありません。それに、人はそれぞれ、その人なりの善に従って、愛すべき隣人です。だから隣人愛の段階にも、類とか種(しゅ)とかが存在することがはっきりします。

ところで、何にも増して愛すべき方は主ですから、主への愛に従って、隣人愛の段階は測られる必要があります。それゆえ、ある人が自分のうちに主のもの、主からのものを所有していればいるほど、善を所有していることになります。なぜなら、全ての善は主のみ力によるものだからです。

(3) ただ、その段階が存在するのは、内部人間の中です。この世で表面化することはまれです。従って隣人は、自分の知る限りの段階で愛されなくてはならないわけです。

その段階も、死後、はっきりと感じとれるようになります。来世では、意志がもつ情愛と、それに応じて理性がもつ思考力が、自分の周りに霊気 sphaera spiritualis をつくります。それもいろいろに感じられます。この世では、この霊気(スフェア)は物質的な肉体に吸収され、各人が発散する自然的な雰囲気で包みこまれているから、はっきりしません。

隣人愛の段階については、主はサマリヤ人のたとえ話をなさいました。祭司やレビ人は、見ながらも通り過ぎていきましたが、サマリヤ人は、強盗に襲われて傷を負った人に慈悲深い行いをしました。以上の三人の中で、だれが強盗に襲われた人にたいして、隣人 proximus になったかと、主は尋ねられます。その答えは、

「慈悲をしめした人です」と(ルカ10:30-37)。

  
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