Bible

 

ヨエル書 2:7

Studie

       

7 彼らは勇士のように走り、兵士のように城壁によじ登る。彼らはおのおの自分のを進んで行って、そのを踏みはずさない。

Komentář

 

祭壇

  

御言葉に記されている最初の祭壇は、ノアが箱舟から出てきた後、ノアが建てたものです。その祭壇で、きれいな動物を主のために犠牲にしました。山は高いところにあるので、主を象徴し、私たちが主と「話す」ときには、この世のものよりも思考を高めなければなりません。祭壇は小さな人工的な山ですが、礼拝に使われると、この思考の高揚を思い起こさせ、火と煙を上げて、象徴的に主に送ることができます。祭壇の多くは、切り立っていない石で作られています。石は真理を表し、人の手によって形作られていない石は、御言葉の真理、汚されていない真理を表します。きれいな獣は善いこと、正しいからこそ行う慈善的な行為を表し、きれいな鳥は教義と行動、何が正しいかについての考えを表しています。ですから、これらのことを提示するということは、私たちが主からそれらをもらったことを認め、主に感謝することなのです。

イスラエルの幕屋では,焼燔の供え物の祭壇は善の承認を表し,香の祭壇は真理の承認を表していました。そのため、扉の外にあったこの大きな祭壇は、自然の善を意味する真鍮で作られ、線香の祭壇は真理から来る主への愛を意味する金で作られていました。

(Odkazy: 天界の秘義921, 1298, Arcana Coelestia 1298 [2], [3], 10177)

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天界の秘義 # 1298

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1298. 「石の代わりにれんががあった」とは、かれらにとって真理の代わりに偽りがあったという意味です。「れんが」が偽りを示すと、前述したばかりで、明らかです。と同時に、643節で述べたように、「石」が広い意味で真理を指すことから分かります。「石」が真理を意味する理由は、最古代人の境界線は、石が印になっていました。本当である証拠に石を立てたわけです。創世記 28:22; 35:14に見られるように、ヤコブが石を柱として立てたことからも分かります。その他、創世記 31:46,47,52で、ラバンとヤコブとの間に石の柱を立て、ヨシュア 22:10,28,34には、ルベン、ガデ、マナセの息子たちが、ヨルダン川のほとりに祭壇を造りました。

このようにして〈みことば〉では、「石」は真理を表します。〈みことば〉で「石」が真理を示したことは、祭壇の石だけでなく、アロンのエポデの肩にある宝石や、公平を示す胸部の宝石も、愛に属する聖なる真理を表しました。

② 祭壇については、祭壇上で犠牲をささげる信心が始まり、それに伴って、「祭壇」は、主の表象一般を意味するものとなりました。祭壇にある「石」は、その信心の聖なる真理を示します。

「したがって、切石ではない完全な石で祭壇を築くように命じられた。またその石に、鉄の器を当てることは禁じられた」(申命記 27:5-7ヨシュア 8:31)。

「切石で鉄の器を当てたもの」とは、人工的なものという意味があります。それは信心の真似事になり、エゴから発するもの、人の心の思い図ることから生まれるものです。それは信心の冒涜であることは、出エジプト記第20章25節にはっきり示されています。同じような理由で、列王記上第6章7節にあるように、神殿の石の上には鉄の器を当てませんでした。

114節で前述したように、アロンのエポデの肩部にある宝石、公平の胸部にある宝石は、聖なる真理を意味しました。イザヤ書には、次のようにあります。

「見よ、わたしは紅玉の中にあなたの石を据え、サファイアの中に基をおき、あなたの太陽(窓)をルビーにし、あなたの門を宝石の石にし、あなたの境界線は願わしい石にする。あなたの息子たちはみな、エホバの教えを受け、あなたの息子たちは大きな平和を受ける」(イザヤ 54:11,12,13)。

ここで挙げられた石は、聖なる真理を表します。したがって、「あなたの息子たちはみな、エホバの教えを受け」とあります。そのためヨハネの黙示録には、次のようにあります。

「聖なる都エルサレムの城壁の土台は、いろいろな名前の宝石で飾られていた」(黙示録 21:19,20)。

「聖なるエルサレム」とは、天界と地上における主のみ国をあらわします。その「土台」は、聖なる真理です。同じく、律法の掟、すなわち十戒が記されている石板は、聖なる真理を示します。石でできているもの、石の土台をもっているものについては、出エジプト 24:12; 31:18; 34:1申命記 5:22; 10:1を参照してください。その掟自身は、信仰の真理以外の何ものでもありません。

④ さて、古代にあっては、「石」は真理を表しました。そして信心が柱や祭壇や神殿の中で始められるにつれ、「柱、祭壇、神殿」は、聖なる真理を意味するものとなりました。したがって、主もまた「石」といわれています。モーセの書には、次のようにあります。

「ヤコブの強き方、牧者、イスラエルの石よ」(創世記 49:24)。

イザヤ書には、次のようにあります。

「主なるエホビは言われた、わたしはシオンで石を土台に据える。これは検証された石であって、隅に置かれる、貴重な、基礎として確かな石である」(イザヤ 28:16)。

ダビデの書には、次のようにあります。

「家造りの捨てた石が、角の親石となった」(詩篇 118:22)。

同じく、ダニエル書には、次のようにあります。

「かれは、岩から切り取られた石で、ネブカデネザルの像を砕いた」(ダニエル 2:34,35,45)。

⑤ 「石」が真理を示すことは、イザヤ書からも明らかです。

「これをもって、ヤコブの不義はあがなわれる。そして祭壇のすべての石を、くだかれた石灰の石のようにするとき、その罪を取り除くためのすべての実りになる」(イザヤ 27:9)。

「祭壇の石」とは消滅した信心の中にある真理を指します。同じく、

「民の道を均(なら)しなさい。小道を平らにしなさい、平らにしなさい。石を取り除きなさい、石を取り除きなさい」(イザヤ 62:10)。

「道と石」は、真理を指します。エレミヤ書には、次のようにあります。

「わたしはあなたに対抗する。滅ぼしの山よ、・・・わたしは岩からあなたを転がす。そしてあなたを焼山(やけやま)にする。かれらはあなたから、隅石、土台石を取り出すことはない」(エレミヤ 51:25,26)。

上掲はバベルについて言及しています。「焼山」とは自己愛です。「そこから石を取らない」とは、真理が存在しないという意味です。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.