バトル
御言葉の中の戦争は、善であるものが悪や偽りのものに襲われるときの誘惑の戦いを表しています。襲ってくる悪は、地獄の多くの社会の一つから来ていて、私たちの心の中で、私たちが正しいと知っていることに反した利己的な愛を呼び覚ますことによって作用します。そして、私たちの利己的な愛が、善人でありたいという願いを育む愛を攻撃し、私たちの心の中に戦争が起こります。これは、イスラエルの子供たちがカナンの地で戦った戦争に代表されるもので、旧約聖書には長い歴史があります。利己的な愛は遺伝的に私たちの心の中にあふれていますが、善良な愛は良心が発達するにつれて長く続いていきます。もし私たちに良心がなければ誘惑されることができず、私たちはすぐに利己的な願いに従って屈服してしまいます。しかし、そうすると最終的には地獄の奴隷状態になり、彼らの望むことを何でもすることになるのです。
(Odkazy: 天界の秘義1659 [3], 1664, 1683, 1788 [2])
天界の秘義 # 1683
1683. 「かれらに対して戦陣をしいた」とは、攻撃的であることを示します。それは「戦陣をしいた」が、前第3節にあるように、対抗する、または反撃するの意味があるため、分かると同時に、攻撃するのは悪霊であることからも、分かります。実情は次の通りです。
主はある特定の地獄と火蓋を切って戦うようなことはなさいません。むしろ地獄が主にたいして攻撃します。それは試練・誘惑にあう人、悪霊たちとの戦いの中にある人、それぞれに起こります。その当人の中で、天使たちは攻撃をしかけません。攻撃してくるのは、いつも、そして絶えず、悪霊側です。天使たちは、逸(そ)らしたり、防御したりするほうです。
これは主によるわけで、主はだれにたいしても、極悪・最悪の敵であっても、災害をもたらしたり、地獄で滅ぼしたりはなさいません。人はみずから自分に悪をもたらし、地獄に身を投げいれます。これこそ悪の本性であり、善の本性です。悪の本性は、一人ひとりを苦しめることを欲し、善の本性はだれも苦しめません。悪人は、その〈いのち〉そのものが、人を攻撃し、人を滅ぼそうと絶えず願っています。善人は、その〈いのち〉そのものが、だれをも攻撃せず、悪から守ることで、人に役立ちを提供しようとします。