Bible

 

創世記 31:6

Studie

       

6 あなたがたが知っているように、わたしは力のかぎり、あなたがたの父に仕えてきた。

Komentář

 

  
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何かを理解するときに「見える」と言うのはよくあることです。そして、聖書の中の「見る」というのは、確かに霊的なものを把握し、理解することを表しています。ですから、私たちを見ることができる目は、霊的なものを理解することができる知性を表しているのです。

もちろん、これは否定的な意味でも使われます。聖書は人々が目を持っていて見ることを拒否していることを語っており、主がこの世におられた時には、不快な目を摘み取るように助言されました。これは、真実を認めることを拒否したり、偽りに惑わされたりすることを表しています。

(Odkazy: 啓示による黙示録解説214; 天界の秘義212, 1584, 1806, 2701, 3820, 3863 [6-11], 4410, 5810, 8792, 9051)

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天界の秘義 # 212

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212. 「目が開け」は、〈みことば〉の同じような箇所からも分かるように、至上命令を意味します。例えば、バラムが自分について語り、幻を見ていた自分のことを、「目が開けた人」(民数 24:3, 4)と自称しています。またヨナタンは蜜蜂の巣から取って舐(な)めましたが、内的な命令では、それは悪でした。「かれの目が見た」とあるのは、無知だったものが見えるよう照らされたという意味です(サムエル上 14:27, 29)。その他、「目」は〈みことば〉では、何回も理性を指して使います。内的至上命令もそこから来ます。ダビデは言いました。

「死の眠りにつかないよう、わが目を明るくしてください。」(詩篇 13:3)。

エゼキエル書では、理性の意味で用います。

「かれらには、見る目があるが、見えない」(エゼキエル 12:2)。

イザヤ書では、理解しようとしない人に使います。

「自分の眼で見えないように、かれの目を貼り付けてください」(イザヤ 6:10)。

モーセは、理解を阻(はば)むため目を塞ぐとき、その民に向かって言いました。

「エホバはあなた方に、知るための心、見るための目、聞くための耳をお与えにならなかった」(申命 29:4)。

「心」は意志を、目は理性を指します。エホバについて、イザヤは言います。

「盲目の眼を開けられるであろう」(イザヤ 42:7)。

同じく、

「暗闇と暗がりから、盲目の人の眼が見るようになる」(イザヤ 29:18)。

  
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