圣经文本

 

ヨハネによる福音書第20章:25

学习

       

25 ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。

来自斯威登堡的著作

 

天界の秘義#2921

学习本章节

  
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2921. 「わが主よ、あなたはわれわれの真中にあって、神の君です」とは、かれらにある神的善と真理の面から見た主を指します。それは、「主」および「神の君」と、「われわれの真中にあって」の意味から明らかです。

「主」は、善をテーマにするさい用いられることは、旧約聖書の〈みことば〉から明らかです。旧約聖書では、エホバについて、エホバと呼ばれると同時に、神、主、神エホバ、主エホビ、大能のエホバとも呼ばれます。そこには秘義的な理由がありますが、内的意味によらない限り、それは分かりません。

一般的には、愛の天的なもの、すなわち善をテーマにするとき、エホバと言われ、信仰の霊的なもの、すなわち真理をテーマにするとき、神と言われます。両方を同時に指す場合、神なるエホバと言われます。

善のもつ神的力、すなわち全能を視野にいれるとき、大能のエホバ、すなわち万軍のエホバ と言われ、それと同時に主とも言われます。大能のエホバと主は、同じ意味になります。それで善の能力の面で、人間や天使も「主(複数)」と言われ、その反対の意味で、何の能力もない奴隷、またはそのような奴隷の能力をもつ奴隷を指します。

以上で、本節での「わが主よ」には、その内的意味で、善の面での主を意味することが明らかです。なおこれは、〈みことば〉から、後ほど説明することにします。

「神の君」とは、真理の能力、すなわち真理面での主を指します。それは「君

」すなわち「第一人者」が、第一次的な真理を意味することで明らかです(1482,2089節)。なお、神の君と言われていることからも明らかです。なぜなら、善をテーマにするときエホバと言われるのにたいし、真理をテーマにするとき、神と言われるからです(2586,2769,2807,2822節)。

「われわれの真中にあって」とは、かれらの間、またかれらの傍という意味である点、説明を要しません。

② 旧約聖書の〈みことば〉には、大能のエホバ、または主は、同じような意味で用いられます。イザヤ書には、次のようにあります。

「大能のエホバの熱意がこれをなされる。主は言葉をヤコブにおくり、イスラエルに下される」(イザヤ 9:7,8)。

同じく、他の箇所です。

「力ある王がかれらを治めると、大能のエホバである主は言われる」(イザヤ 19:4)。

マラキ書には次のようにあります。

「見よ、あなたがたが求める主は、すぐその神殿に来られる。見よ、あなた方が待ち望む契約の天使が来る。大能のエホバは、こう言われる」(マラキ 3:1)。

イザヤ書では、もっと明白です。

「わたしは、主が高くあげられたみ座に座しているのを見た。・・・その上にセラピムが立ち、それぞれに六つの翼をもって、互に呼びかわして言った。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、大能のエホバ。・・・わたしはわざわいだ。わたしは滅びる。・・・わたしの目が、王なる大能のエホバを見たのだから。・・・わたしは主の声を聞いた」(イザヤ 6:1,3,5,8)。

上掲から、大能のエホバと主が、同じ意味で使われていることが分かります。

③ とりわけ全能のみ助けを乞い求めるとき、主エホビと言われます。イザヤ書には、次のようにあります。

「ユダの町々に言え。見よ、あなた方の神を。見よ、主エホビは、力をもって来られ、その腕は治められる。見よ、その報いはエホバとともにあり、その働きはみ前にある。牧者がその群れを養うように」(イザヤ 40:9-11)。

そのようなとき、主エホビと言われます。それについては、イザヤ 25:8; 40:10; 48:16; 50:4,5,7,9; 62:1エレミヤ 2:22エゼキエル 8:1; 11:13,17,21; 12:10,19,28; 13:8,13,16,18,20; 14:4,6,11,18,20,21ミカ 1:2詩篇 71:5,16他、多数あります。

④ さらに、旧約聖書の〈みことば〉では、主がエホバと同じ意味になります。すなわち善がテーマであるとき、主と言われています。したがって、エホバが神と区別されているように、主は神と区別されて用いられています。モーセの書にもあります。

「あなた方の神エホバは、神々の神、主の中の主である」(申命記 10:17)。

ダビデの書にもあります。

「神々の神に感謝せよ、その慈しみは永遠である。主の中の主に感謝せよ、その慈しみは永遠である」(詩篇 136:1-3)。

⑤ 新約聖書では、福音書でも黙示録でも、エホバの呼称はどこにもなく、エホバの代わりに、主と言われています。これは秘義的な理由によります。それについては後述します。新約聖書の〈みことば〉で、エホバに代わって、主が用いられていることは、マルコによる福音書の中で明らかです。

「イエスは言われた。あらゆる戒めの第一は、次のようである。イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、ただひとりの主である。したがって、心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、あなたの神である主を愛しなさい」(マルコ 12:29,30)。

モーセの書にもあります。

「イスラエルよ聞け。われわれの神であるエホバは、ただひとりのエホバである。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神であるエホバを愛しなさい」(申命記 6:4,5)。

上掲では、エホバが主になっていることがよく分かります。同じく、ヨハネの書には、次のようにあります。

「わたしは見た。み座が天界に設けられていて、そのみ座に座っておられる方がいた。・・・み座のまわりには、四つの動物がいて、前後一面に目がついていた。・・・その動物には、それぞれ六つの翼があり、そのまわりと内側一面に目がついていた。・・・かれらは言った。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能の神である主」(黙示録 4:2,6,8)。

イザヤ書には、次のようにあります。

「わたしは、主が高くあげられたみ座に座しているのを見た。・・・その上にセラピムが立ち、それぞれに六つの翼をもって、互に呼びかわして言った。聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、大能のエホバ」(イザヤ 6:1,3,5,8)。

上掲でも、エホバの代わりに主が用いられています。また大能のエホバの代わりに、全能の神である主と言われています。四つの動物とは、セラピム、すなわちケルブ天使であることは、エゼキエル 1:5,13-15,19以降;10:15にある通りです。新約聖書にある主はエホバであることは、他にも多くの箇所から確かめられます。ルカ福音書にあります。

「すると、主の天使がザカリヤに現れた」(ルカ 1:11)。

「主の天使」とは、エホバの天使です。同じくルカには、天使がザカリヤに向かって、その息子のことを伝えます。

「イスラエルの多くの子らを、かれらの神である主に立ち帰らせるでしょう」(ルカ 1:16)。

「神である主」とは、神であるエホバです。同じく天使は、マリヤに向かってイエスについて言います。

「その方は、偉大なる者となり、至高なるお方のおん子と言われ、神なる主は、かれにダビデの座をお与えになるでしょう」(ルカ 1:32)。

「神なる主」とは、神なるエホバを指します。同じく、

「マリヤは言った。わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」(ルカ 1:46,47)。

上掲での「主」はエホバを指します。同じくルカ福音書では、ザカリヤが預言して言いました。

「イスラエルの神なる主は、ほむべきかな」(ルカ 1:68)。

「神なる主」とは神なるエホバを指します。同じく、

「羊飼いたちに、主の天使が現れ、主の栄光がかれらをめぐり照した」(ルカ 2:9)。

「主の天使」「主の栄光」とは、エホバの天使であり、エホバの栄光です。マタイによる福音書には、次のようにあります。

「主のみ名において来られる方は、祝されよ」(マタイ 21:9; 23:39ルカ 13:35ヨハネ 12:13)。

「主のみ名において」とは、エホバのみ名を指します。その他参照箇所がたくさんあります。例えば、ルカ 1:28; 2:15,22-24,29,38,39; 5:17マルコ 12:10,11などです。

⑥ エホバを主と呼んだことは、秘義に属し、それには、次のような理由があります。もし主のご在世当時、旧約聖書ではその度に、主がエホバと呼ばれていた(1736節参照)と言われたとしたら、どうでしょうか。信じなかったでしょうから、受け入れられなかったに違いありません。主は神性を人間性に、人間性を神性に、完全に一致合体されたとき、主は初めてエホバになられました(1725,1729,1733,1745,1815,2156,2751節参照)。

十字架による最後の試練・誘惑のあと、完全無欠な一致合体が行われました。そのためご復活のあと、弟子たちは常にその方を主と呼んでいます(ヨハネ 20:2,13,15,18,20,25; 21:7,12,15-17,20マルコ 16:19,20)。トマスは言いました。

「わが主よ、わが神よ」(ヨハネ 20:28)。

主は、旧約聖書の中で再三「エホバ」と名づけられていた方でした。だからこそ、弟子たちにたいして言われました。

「あなた方はわたしを先生また主と呼んでいる。それは正しい。わたしはその通りだから。しかし主であり先生のわたしが、あなた方の足を洗ったのだから、あなた方もまた互に足を洗わねばならない」(ヨハネ 13:13,14,16)。

上掲では、神なるエホバであられたことを意味します。「主」は善の面での呼称であるのにたいし、「先生(教師)」は、真理面での呼称です。主がエホバであられたことは、天使たちが羊飼いらにいった言葉からも分かります。

「きょう、あなたがたのために、救い主がお生れになった。この方こそ主なるキリストです」(ルカ 2:11)。

「キリスト」とは、メシア、注油された方、王の意味です。「主」とは、エホバです。前者は真理面から、後者は善の面からの呼び名です。〈みことば〉を入念に調査しない場合、以上が分かず、一般人のように、われらの救い主として崇敬を表わす通常の形式にもとづいて、主と呼ばれていると思います。しかし実際は、エホバであられたからこそ、そのように呼ばれました。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.