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霊魂と肉体との交流 # 2

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2. 前述したように、霊的流入こそ秩序と法則にかなっているため、学問の世界でも、知恵のある人たちによって、他の二つの説以上に認められ受け入れられています。秩序に根差しているものは真理です。真理は、内在の光に照らされて明晰判明にみずからを現します。それは仮説をたてるときなどで理性が暗闇にあってもそうです。

仮説を立てる時の暗い陰になるものが三つあります。霊魂とは何かについて知らないこと、霊とは何かについて知らないこと、そして流入とはどんなものか知らないことです。すなわち、理性が真理を見ることができるようになるまで、以上の三つの無知について説明しなくてはなりません。なぜなら、仮説上の真理は真理そのものではなく、推定された真理でしかありません。それは夜空の星の光で、壁に書かれた絵を見ているようなものです。幻想によって精神は、いろいろな形を付け加えます。夜明けの日の光が射してきて、大雑把な輪郭だけでなく、隅々まで分かり、はっきりみえてくると、やがて違ってきます。

仮説をたてるときは、そのような真理の陰のようなものがあります。しかし自然にたいする霊の関係、人間の霊魂の本質と性格、その霊魂に流れる流入の性格、感知力や思考力への影響、そこから肉体に及ぼす流入の性格などを知るとき、その暗がりから脱して、真理が開かれてきます。

ただし以上のことは、自然世界の人とつきあいながら、霊界で天使たちの仲間入りをして、主から教わるのでなければ、人から教わって分かるようなものではありませません。

それでわたしには、そのチャンスが与えられました。つまり以上がそれぞれどんなものかは、「結婚愛」について記した小著にあります。 326-329節のメモには、霊的なものについて、315節には人間の霊魂について、380節には流入について、412節から422節にも、それが豊富に記されています。〈愛の善〉と〈信仰の真理〉は、神から発して人に流れてくること、その流入は人の霊魂に流れてくること、そして精神の中でそれが感じられること、それが思考に発してコトバとなって溢れ出、また意志に発して行動になることなどについて、知ることができる人が果たしているでしょうか。それで霊的な流入の存在、その起源および派生経路などが、次の順序で明らかになります。

第一 二つの世界がある。それは霊と天使のいる霊界、人間がいる自然の世界である。

第二 霊界は、それなりの太陽を起源に実在存続し、自然の世界も、それなりの太陽を起源に実在存続する。

第三 霊界の太陽は純粋愛である。それは中央におられる神エホバのみ力による。

第四 その太陽から熱と光が出ている。その発する熱の本質は愛である。その発する光の本質は英知である。

第五 その熱も光も人間に流れ入っている。熱は意志のなかに入り、そこで愛の善を生み、光は理性のなかに入り、英知の真理を生む。

第六 以上の熱と光、あるいは愛と英知の二つは、一つになって、神から人間の霊魂に流れてくる。霊魂をとおして精神に入り、それが情愛と思考に入り、そこから肉体と感覚に入り、それから言語と行動に及んでくる。

第七 自然界の太陽は、純粋の火である。これを通して、自然の世界が実在存続する。

第八 この太陽から発するものは、それ自身としては、すべて死んだものである。

第九 人が衣服をつけるように、霊的なものは自然的なものを身にまとっている。

第十 人はそのように霊的なものを身にまとうことで、合理的・道徳的に、つまりは霊的・自然的に生きられるようになる。

第十一 以上の流入は、本人の愛と英知の状態に応じて受け止められる。

第十二 人にある理性 intellectus は、合理性 ratio を耕すに応じ、天界の天使が宿している光すなわち英知に挙げられ得る。同じく人の意志は、生活の行いに応じて、熱すなわち愛のなかに挙げられ得る。ただし人が理性の英知が教えるところを欲し行わないかぎり、意志の愛は挙げられない。

第十三 動物の場合は、それとまったく違っている。

第十四 すべて流入が行われるさい、霊界にも三段階、自然界にも三段階ある。

第十五 第一段階は目的、第二段階は原因、第三段階は結果である。

第十六 霊的流入とはどんなものか、起源から結果にいたるまで、以上ではっきりする。

ここで一つ一つについて、簡単に説明します。

第一 二つの世界がある。それは霊と天使のいる霊界、人間がいる自然の世界である。

  
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結婚愛 # 326

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326. 以上に二つのメモを加えます。第一のメモ。ある学校で、霊魂についての問題が論じられ、解決を得てから、みんな順序良くならんで退場していくのをわたしは見ました。まず教育長が先頭で、そのあと長老たちが続き、そのあいだに質問に答えた五人の若者が歩き、そのあと他の者が続きます。退場してから、かれらは建物のまわりにある中庭に入って行きましたが、そこには植木を囲んで遊歩道がついています。ひとまずそこに集まってから小さなグループに分かれました。英知にかんすることで話をした若者を中心にした各グループで、それぞれのグループにはバルコニーにいた知者が一人ついています。

わたしは自分のいた宿舎からかれらを眺めていましたが、霊の状態になり、霊の状態でかれらに向かい、教育長のほうへ近づいて行きました。先に霊魂についての問題提起をした人です。かれはわたしの姿を見て言いました。

「あなたはどなたですか。わたしはあなたがこちらへ近づいてくるのを見ていて、びっくりしました。わたしの視野に入ったかと思うと視野からはずれ、見えたかと思うと急に見えなくなります。きっとわたしたちと同じ生命状態にはないのだと思いますが」と。わたしはそれに軽く笑って応えました。

「わたしは手品師でもないし、変身の神ウェルトゥムヌスでもありませんただ交代で姿をあらわしています。つまりあなた方にとっての光に入ったり、影に入ったりで、他国人になったり同胞になったりしています」と。

[2]。教育長はわたしをじっと眺めて、

「あなたは全くめずらしいことを言われるのですね。いったいどなたですか」と言います。わたしは言いました。

「わたしはあなた方がかつていらっしゃり、去ってこられたいわゆる自然の世界にいると同時に、あなた方がやって来られ、現在いるいわゆる霊界にもいます。ですから自然の状態にいると同時に、霊の状態にもいます。自然の状態では地上の人たちといっしょですが、霊の状態ではあなた方といっしょです。自然の状態にいるときあなた方には見えませんが、霊の状態にあると、あなた方に見えるようになります。わたしがこんなふうなのも、主がなさったことです。

さて、すぐれたお方であるあなたにはお分かりと思いますが、自然の世界の人間は霊の世界の人間を見るわけにはいかず、その逆も真です。したがってわたしが自分の霊を肉体にどっぷり漬けているときは、あなた方に見えないし、肉体から霊を引きあげると見えてきます。あなたはかの校舎で教えられたように、あなた方は霊魂そのもので、霊魂は霊魂が見えるのです。これこそ人間の〈かたち〉ですから。またご存じのように、自然の世界にいらっしゃったとき、肉体の中にあるご自分、つまりご自分の霊魂をみることがありませんでした。それこそ霊と自然とのあいだにある異相 discrimen が原因でそうなっているのです」と。

[3]。霊と自然とのあいだの異相と聞いて、

「異相って何ですか。それは純粋さの大小によるものですか。霊といえばより純粋な自然のことでしょう」と言います。それでわたしは答えました。

「異相はそれとは違います。〈前のもの prius 〉と〈後のもの posterius 〉とのあいだにある関係で、そのあいだに有限の比率はありません。〈後のもの〉の中には〈前のもの〉がありますが、それはそれなりの結果には原因が内在しているようなものですし、〈後のもの〉は〈前のもの〉から来ますが、それはそれなりの原因から結果が生まれるようなものです。そのように、一方は他方には姿を現しません」と。

それにたいし、教育長は、

「わたしはその異相について熟考し、思いめぐらしてみましたが、今のところよく分かりません。それが感じとれればいいのですが」と言います。

[4]。それでわたしは言いました。

「あなたは霊と自然とのあいだの異相を感じとれるだけでなく、ご覧になりますよ」と言いつつ、次のようにつけ加えました。

「あなたはご自分の仲間といっしょの折は霊の状態ですが、わたしの傍では自然の状態です。あなたは霊と天使の共通語である霊語 lingua spiritualis をつかって、あなた方同志では話しておられますが、わたしと話されるときは、わたしの使っている国語を使っておられます。なぜなら、すべての霊や天使が人間と話すときは、その人の国語をつかって話します。フランス人とはフランス語で、イギリス人とは英語で、ギリシヤ人とはギリシヤ語で、アラブ人とはアラブ語でというふうです。それでコトバにかんして、霊と自然とのあいだの異相が分かるため、そうしてみて下さい。ご自分の仲間のところへ行き、そこで何かを話しその話し声をそのままたずさえ、記憶にしまってから、それをわたしのまえで発音してみて下さい」とわたしは言いました。

教育長はそのようにしました。言ったことを口に含ませながらわたしのところへ戻ってきて、それを発声しましたが、何も分かりませんでした。その単語はまったくなじみのない異語で、自然の世界のコトバではありません。

このような経験を何回か繰返してみてはっきりしたことは、次のとおりです。すなわち、霊界にいる者にはみんな霊語があって、自然世界のコトバと何の共通性もありません。そして人はみんな死んでから、この霊語を話すようになります。そのときまたかれが経験したことですが、霊語の音声は、自然語の音声とはひじょうに違っていて、霊語の音域は高く、自然の人間によっては聞きとれないわけで、自然語の音も霊人によって聞きとれません。

[5]. そのあとわたしは、教育長とその周りにいる人たちに、自分の仲間のいるところへ行って、紙片にある文章を書き、その紙をもってわたしのところへ戻り、読んでくれるように頼みました。かれらはその通りにし、手に紙片をもってやってきました。そして読みましたが、自分では何も理解できません。なぜなら、その記したものはあるアルファベットの文字から成っていて、文字の上端に曲線が付してあります。その一つ一つはある意味をもっています。そこから主が「アルパでありオメガである」と言われる理由が分かります。

かれらはこれを何度も繰返しては、仲間のところへ行って書いては戻ってきた結果、かれらの文書は、自然の文書が表現することができないものを無限に含みもっていることが分かりました。そして言われたことは、霊の人は自然の人間には理解しがたいもの口では言い表せないことを考えているため、それを他の文体や他の言語に移しかえることはできないということでした。

[6]. そのとき、霊的思考は自然的思考をはるかに凌駕し、それを表現することが到底できないことを傍に立っている人たちが認めたくない様子でした。それでわたしはかれらに次のように言いました。

「どうぞ経験してみて下さい。あなた方の霊的社会に入り、何かを考えてそれを頭に残しつつ戻ってくるなり、わたしの面前で口にしてみて下さい」と。

そこでかれらは自分たちの社会に入り、考え、それを記憶にしまったまま戻ってきました。そして考えたことを口にしようとしましたが出来ません。霊的思考の概念に相当する自然的思考の概念が見つからないのです。思考概念はコトバ化して単語になるはずなのに、それを表現しようにも単語が無いわけです。

[7]. それでかれらは、再び自分の社会にもどり、自分なりに確かめたことは、霊的概念は超自然的であって、自然の人間にとっては、表現不可能、発声不可能、理解不可能であるということです。そして、霊的概念または思考は、自然的な概念や思考に比べると、はるかにすぐれており、概念中の概念、思考中の思考であると言いました。さらに霊の概念によっては、性格の中の性格、情愛の中の情愛が表現でき、その結果、霊の思考は、自然的思考の出発点であり、根源であるということです。そこからまた、霊的英知は、英知の英知であること、自然の世界にいる知者にも感知できない英知であるといったことがわかりました。

そのとき、第三天界から言われたことは次のとおりです。霊的英知が自然的英知に比較できないように、この霊的英知に比較するとずっと内的で高次の「天的英知」と呼ばれるものが存在することです。これらの英知は天界の秩序にしたがって、主の無限の英知である神的英知から流れくるものです。

  
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