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マタイによる福音書 1

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1 アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。

2 アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、ヤコブはユダとその兄弟たちとの父、

3 ユダはタマルによるパレスとザラとの父、パレスはエスロンの父、エスロンはアラムの父、

4 アラムはアミナダブの父、アミナダブはナアソンの父、ナアソンはサルモンの父、

5 サルモンはラハブによるボアズの父、ボアズはルツによるオベデの父、オベデはエッサイの父、

6 エッサイはダビデ王の父であった。

7 ソロモンはレハベアムの父、レハベアムはアビヤの父、アビヤはアサの父、

8 アサはヨサパテの父、ヨサパテはヨラムの父、ヨラムはウジヤの父、

9 ウジヤはヨタムの父、ヨタムはアハズの父、アハズはヒゼキヤの父、

10 ヒゼキヤはマナセの父、マナセはアモンの父、アモンはヨシヤの父、

11 ヨシヤはバビロンへ移されたころ、エコニヤとその兄弟たちとの父となった。

12 バビロンへ移されたのち、エコニヤはサラテルの父となった。サラテルはゾロバベルの父、

13 ゾロバベルはアビウデの父、アビウデはエリヤキムの父、エリヤキムはアゾルの父、

14 アゾルはサドクの父、サドクはアキムの父、アキムはエリウデの父、

15 エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、

16 ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生れになった。

17 だから、アブラハムからダビデまでの代は合わせて十四代、ダビデからバビロンへ移されるまでは十四代、そして、バビロンへ移されてからキリストまでは十四代である。

18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。

19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。

20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。

21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。

22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、

23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。

24 ヨセフは眠りからさめた後に、主の使が命じたとおりに、マリヤを妻に迎えた。

25 しかし、子が生れるまでは、彼女を知ることはなかった。そして、その子をイエスと名づけた。

Från Swedenborgs verk

 

True Christian Religion #189

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189. CHAPTER FOUR

THE SACRED SCRIPTURE OR THE WORD OF THE LORD 1

I. The sacred scripture, that is the Word, is Divine truth itself.

Everyone professes the Word to be from God, divinely inspired and therefore holy, but up to the present no one has known where in it the Divine is. For taken literally the Word looks like any ordinary book, written in a strange style, neither high-flown nor brilliant as many secular books appear to be. This is why if a person worships nature as God or in preference to God, so that his thought comes from himself and his own personality (proprium) rather than from heaven inspired by the Lord, he can easily fall into error about the Word and come to despise it. Thus he may say to himself when he reads it: 'What does this or that mean? Can this be divine? Can God, whose wisdom is infinite, talk like this? Where is there anything holy in it, and where does this holiness come from, except from religious belief and the conviction it carries?'

Fotnoter:

1. The whole of this chapter is closely modelled on THE DOCTRINE OF THE SACRED SCRIPTURE, published in Amsterdam in 1763.

  
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Thanks to the Swedenborg Society for the permission to use this translation.