エジプト
聖書の中でエジプトとは、知識と知識の愛を意味します。良い意味では、聖書を通して主からの真理の知識を意味していますが、自然な意味では、単に地上の知識を蓄えて所有することを意味しています。そして、聖書からの知識であっても、必ずしも良いものとは限りません。しかし、それらは、物事を知るためだけに、あるいは学ばれているという評判を得るためだけに学ばれている場合です。
だから、エジプトはあなたが物事を学ぶために行く場所ですが、天になるためには、不毛な「知ること」から抜け出して、内的な善への欲求で満たされているカナンの地へと旅をしなければなりません。
エジプトがヨセフに支配されていたとき、そこはヨセフの父や兄弟たちの避難所だったというのは興味深いことです。このことは、人の内なる心が学問の地で支配されると、役に立つことを多く学ぶことができることを示しています。しかし、やがてヨセフを知らないファラオが現れ、イスラエルの子らは奴隷にされてしまいました。ファラオは外面的な心を表しています。それが担当しているときには、知っていることの興奮と自己満足は、内面的な心を奴隷のように減少させることができます。心は-イスラエルの子供たちのように-レンガ、または外部の外観から人造の偽りを作って終わる。
(références: 啓示による黙示録解説503 [1,3,5]; 天界の秘義1461, 5580)
天界の秘義 #5580
5580. 「エジプトから持ってきた」とは、科学知から来ることを言います。「エジプト」とは科学知を意味します(1164,1165,1186,1462節)。「から持ってきた」とは、その科学知から来るという意味です。よい意味での「エジプト」とは、教会に属する科学知のことで、教会の形成に役立つものです(4749,4964,4966節)。人は、入口を通って、家の中に導かれるように、科学知を通って、教会の諸真理に導かれます。
② 科学知は、最初、感覚に訴え、それから内部へ向かう道を開いていきます。周知のように、人の心を開くのは、最初は外部感覚です。それから準内部の感覚が開かれ、ついには理知が開かれます。理知が開かれると、理知的なものが理解され得るよう、感覚的なものの中で、表象されます。
その理由は次のとおりです。理知的なものは、感覚的なものから抽象することによって生まれます。つまり理知的なものは結論であって、その結論は、いったん決着すると、感覚から分離されて、より崇高なものへと進展します。この働きは、主のみ力により、天界を通して来る〈霊的なもの〉の流入です。以上から、科学知から来る諸真理とは、どのようなものかが分かります。