Le texte de la Bible

 

出エジプト記 1:6

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6 そして、ヨセフは死に、兄弟たちも、その時代の人々もみな死んだ。

Commentaire

 

エジプト

  
The mastaba of the official and priest Fetekti. Fifth Dynasty. Abusir necropolis, Egypt, Photo by Karl Richard Lepsius

聖書の中でエジプトとは、知識と知識の愛を意味します。良い意味では、聖書を通して主からの真理の知識を意味していますが、自然な意味では、単に地上の知識を蓄えて所有することを意味しています。そして、聖書からの知識であっても、必ずしも良いものとは限りません。しかし、それらは、物事を知るためだけに、あるいは学ばれているという評判を得るためだけに学ばれている場合です。

だから、エジプトはあなたが物事を学ぶために行く場所ですが、天になるためには、不毛な「知ること」から抜け出して、内的な善への欲求で満たされているカナンの地へと旅をしなければなりません。

エジプトがヨセフに支配されていたとき、そこはヨセフの父や兄弟たちの避難所だったというのは興味深いことです。このことは、人の内なる心が学問の地で支配されると、役に立つことを多く学ぶことができることを示しています。しかし、やがてヨセフを知らないファラオが現れ、イスラエルの子らは奴隷にされてしまいました。ファラオは外面的な心を表しています。それが担当しているときには、知っていることの興奮と自己満足は、内面的な心を奴隷のように減少させることができます。心は-イスラエルの子供たちのように-レンガ、または外部の外観から人造の偽りを作って終わる。

(références: 啓示による黙示録解説503 [1,3,5]; 天界の秘義1461, 5580)

Des oeuvres de Swedenborg

 

天界の秘義 #1461

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1461. 「アブラムは、エジプトに寄留しようと、そこに下って行った」とは、〈みことば〉から認識上の教育を受けることを指しています。それは「エジプト」のもつ意味と、「寄留する」がもつ意味から分かります。エジプトは、認識上の知識を指し、寄留するは教育を受けることを指します。いずれ後述するので明らかになります。

主は、その幼少時代、他の人と同じように教育を受けられた事実は、ルカによる福音書から、つまり前第9節、1457節のところで付け加えたことから明らかですが、同時に、外部人間について述べたことからも明らかです。すなわち外部人間は、認識を通してこそ、内部人間と相応し、一致呼応します。

外的人間は、物質的で感覚的です。その土壌に認識が植え付けられなければ、天的なもの、霊的なものは受けられません。天的なものにとって、その認識が受け皿になります。その認識は〈みことば〉から得なくてはなりません。

〈みことば〉からの認識こそ受け皿であることは、主ご自身の口から明らかにされています。〈みことば〉自身は、天界を通って主からくるものです。〈みことば〉の個々全体には、外形には現れませんが、主の〈いのち〉が内在しています。

そこではっきりするのは、主はその幼少時代、〈みことば〉の認識が浸透していくことしか、お望みになりませんでした。それは主にとって、前述したように、ご自身がその父エホバそのものであったこと、父とは一体化され、一つになっていたことです。〈みことば〉の中では、主はいつもその内奥部で父を目指し、父が先導役であったことからも、それがいっそう明らかです。人間としての本質は、永遠の昔から存在されているご自身の神的本質にたいして、ただ付け加えたものでした。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.