圣经文本

 

Matthew第27章:50-54 : The veil was torn

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50 Jesus, when he had cried again with a loud voice, yielded up the ghost.

51 And, behold, the veil of the temple was rent in twain from the top to the bottom; and the earth did quake, and the rocks rent;

52 And the graves were opened; and many bodies of the saints which slept arose,

53 And came out of the graves after his resurrection, and went into the holy city, and appeared unto many.

54 Now when the centurion, and they that were with him, watching Jesus, saw the earthquake, and those things that were done, they feared greatly, saying, Truly this was the Son of God.

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ベールが二重になっていた

原作者: New Christian Bible Study Staff (机器翻译成: 日本語)

Photo by Rezha-fahlevi from Pexels

イエス様が十字架にかかって死んだとき、地震が起きました。岩が割れました。十字架刑の命令を実行した百人隊長とその兵士たちは恐れた。

神殿の中心、「聖なるもの」、エルサレムのまさに中心で、聖なるベールが上から下へと裂けたのです。

真っ二つに裂けた」ベール...。

幕屋と後の神殿のベールは重要なものでした。出エジプト記や列王記上に詳しく書かれています。また 天界の秘義2576と書かれています。「理性的な真理は、精神的な真理に対する一種のベールまたは衣服です....ベールは、理性的な善と真理の最も近く、最も内側の外観を表していた....

そして今、イエスが十字架上で亡くなると、ベールは破れてしまいます。これは何を意味するのでしょうか?

スウェーデンボルグはその象徴をこう表現しています。

"...すべての外観が払拭されると、主は神そのものの中に入り、同時に神となったその人間を通して、神そのものへのアクセス手段を開いたということである。"(天界の秘義2576)

4つの分岐点となるスピリチュアルな出来事について考えてみましょう。

1)物理的な宇宙の創造。現在の推測では、138億年前)。 創世記1:1-10

2)生命の誕生。地球上では、35億年前から45億年前の間)。 創世記1:11-25

3) 霊的な意識を持つ人間の始まり。10万年前と推測されています。 創世記1:26-31

4)主なる神、イエス・キリストの受肉と復活(2000年前)。

神様の愛と知恵は、長い間、宇宙に流れ込んでいます。エントロピーが発生するかと思いきや、生命や知性を好むような宇宙が存在する。そのようにして流れ込んできた人間の心が、今、神に応答していることを神が知ったとき、それはどんなに充実した瞬間だっただろうか。

しかし、自由に反応できるということには悲劇が潜んでいます。なぜなら、私たちは反応しないこともできるし、逆の道を歩むこともできるからです。

私たち人間がより「洗練」されていくにつれ、神は私たちに到達するために新しいチャンネルを使いました。そして、それらのチャンネルには、初期の頃から、主がいつか人間の姿でこの世に来られるという予言がありました。

なぜ主はそのようなことをする必要があったのか。主は、私たちが救いに至る決断をするのに十分な善と真実が存在するためには、人々がそのような人間レベルのつながりを持つ必要があることを予見していたに違いありません。

スウェーデンボルグの説明に戻ろう。

"「...すべての外見が払拭されると、主は神そのものの中に入っていった...」。

主の地上での生涯を通して、主は私たちと同じ人間であるという外観がありました。人間の体を持っていました。疲れたり、空腹になったりすることもありました。疲れたり、お腹が空いたり、誘惑されたり(私たちと違って、いつも勝っていましたが)しました。霊的な生活の中で、彼は神の本質から切り離された人間の姿を痛感したことがあった。また、その姿が薄れ、自分の神性をより強く感じることもあった。彼が成長し、バプテスマを受け、宣教活動を始めたとき、彼は自分の中で起こっていること、つまり自分の人間的な部分が栄光に輝くことを、ますます強く意識するようになったに違いない。十字架上での肉体の死によって、肉体的な人間らしさはもはや邪魔なものではなくなった。その姿は払拭された。神と人間の間に新たなつながりが完全に形成されたのです。

そして、スウェデンボルグの発言の第2部です。

"同時に彼は、神となった彼の人間を通して、神そのものへのアクセスの手段を開いた。"

ベールが破れたのです。真の善よりも儀式を優先し、神は目に見えず、人間の知識からベールで隔てられていた古い宗教が破られたのだ。主の新しい教えによって、新しい光が人々に届くようになったのです。私たちは、神の人間として、より深く理解し、近づき、愛することができるようになった神に応答することができました。

来自斯威登堡的著作

 

天界の秘義#2576

学习本章节

  
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2576. 「見よ、これはあなたと、あなたの同伴者全員と・・・眼を覆うためです」とは、合理的真理は、霊的真理をおおう覆いであり、衣服のようなものであることを言います。これはやがて後述する「覆い1」の意味からと、「眼」が、〈みことば〉の多くの箇所に出てくるので明らかなように、理知を意味すると同時に、「見る」が理解することを意味するためです(2150,2325節)。本節の一語一語には、内的意味なくして分からないような秘義がある事実は、だれもが認めるでしょう。

「銀千シケルを与えました」とは、夫にたいしてでなく、「あなたの兄」となっています。またそれが「眼を覆うもの」、「あなたの同伴者全員」、および「そのすべてにたいし」、「こうしてかの女の正しさは認められます」となっています。

文字上の意味から、歴史上多くの推量も引き出せます。ただしそれでは、万事〈みことば〉にあるような霊的意味はなく、まして神的なものでもありません。

② 合理的真理は、霊的真理にたいして、覆いか衣服のようなものです。人の内奥部にあるものは本人の霊魂にかかわるもの、人の外部にあるものは本人の肉体にかかわるものです。人の内奥部は、諸善と諸真理があり、霊魂はそこから〈いのち〉を得ています。そうでなければ、霊魂は霊魂でなくなります。それで、より外部にあるものは、霊魂から〈いのち〉を引き出しており、外部のすべては、肉体に匹敵し、同様に、覆いまたは衣服に匹敵します。

特に、来世で見えてくるので、はっきりします。天使たちの目前に現われる場合、より内部のものは顔から輝き出ます。そしてより外部のものは、身体とか衣服によって表象されます。したがって、だれでもその着ているものから、正体が分かると言えます。なぜなら、実体が現実のものであれば、その本質は〈かたち〉であらわれるからです,。

〈みことば〉に出てくる主の墓所では、天使の容貌や衣服などが見えました(マタイ 28:3マルコ 16:5)。み座のまわりの二十四人の長老の場合もそうです(黙示録 4:4、他)。それは天使たちだけでなく、〈みことば〉に出てくるものは、無魂のものを含めて全部そうです。その外部は覆いか衣服のようで、周りを取り巻く契約の箱や、天幕などもそうです。

契約の箱の場合の「箱」は、その内奥部にある主ご自身を表象します。なぜなら、それが契約だからです。それにたいし、外部の「天幕」は、主のみ国を表象します。そこにある「覆い」、べール1や垂れ幕 は、個々全体が、主のみ国、すなわち三層の天界にある一層外部にある天的なもの・霊的なものを表象します。その〈かたち〉は、シナイ山でモーセに示されましたが(出エジプト 25:9,26:30)、それには以上のような由来があります。したがって聖性の由来は、金や銀、また彫像ではありません。

③ さて、合理的真理とは、霊的真理の覆いか衣服のようなものとの事実に焦点を置きます。モーセの書には、天幕の「覆い」、「垂れ幕」、入口の前面にあるベールについて記されています。そこにある「べール」が格別どのような意味をもつかです。また周りにある垂れ幕がどのような意味をもつかは、神なる主の慈しみに頼って、いずれ後述することにします。

そこには三つのべールがありました。一つは、聖所と至聖所を分けるべールでした。もう一つは、天幕の入口にあって、垂れ幕と呼ばれているものです。三番目は、前庭の門になる覆いでした。

④ 契約の箱の前にある第一番目のベールについては、モーセが次のように記しています。

「青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸でベールをつくり、精巧な作業で、それにケルビムを織り出しなさい。金で覆った四つのアカシヤ材の柱の上に置きなさい。その鉤(かぎ)は金製にしなさい。その柱を四つの銀の土台の上に据えなさい。そのベールを鉤に掛け、そのベールの内に契約の箱を納めなさい。そしてベールは、あなた方のため、聖所と至聖所とを分けるものである」(出エジプト 26:31-34,36:35,36)。

上掲で、ベールは、善と合理的真理にある最も卑近で内奥の外観を表象します。

その外観の中に、第三天界の天使たちがおり、「青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸」はその外観を描きます。赤色は、愛の善を表象し、白色は、その真理を表わ

します。同じように金と銀で柱を覆い、その柱から鉤と土台が造られますが、これも表象です。「色」も表象ですが、これについては、1042,1043,1053,1624節を参照してください。「金」は愛の善を表わし(113,1551,1552節)、「銀」は真理を表わします(1551,2048節)。

⑤ それで次のことも明らかです。

「神殿のベールが裂けた」(マタイ 27:51,マルコ 15:38,ルカ 23:45)。

主は、外観を取り壊して、神性そのものの中に入られました。これは同時に、ご自身の神人性の成立を通して、神性そのものへの扉を開かれたことになります。

⑥ もう一つのベール、すなわち天幕の入口にある垂れ幕については、モーセが次のように記しています。

「あなたは、天幕の入口のために、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、精巧に織った垂れ幕を作りなさい。あなたはその垂れ幕に、アカシヤ材の柱を五つ造り、これを金で覆い、その鉤を金で造り、その柱のために、青銅の土台を五つ鋳て造りなさい」(出エジプト 26:36,37; 36:37,38)。

垂れ幕が表象するのは、善と真理の外観です。この外観は、先にあるものより劣ったもの、外面的なもので、第二天界の天使たちのいる中間的な合理性を指します。外観的なものは、先のものとほとんど同じように描写されていますが、ただ違うのは、垂れ幕には、「五つの柱と五つの土台」があることで、この「五つ」は、比較的に少ないという意味があります。なぜなら外観は、それほど整合性がなく、内奥の第三天界の外観ほど、天界的ではないからです。

五の数が少ないという意味があることについては、649,1686節を参照してください。後者の場合の外観は、自然的なものを視野に置いているため、「土台は青銅で鋳て造る」ように命じられました。青銅は自然的善を表象・含意しています(425,1551節)。

⑦ 神殿の前庭の入口にある、第三の垂れ幕については、モーセが次のように記しています。

「庭の門用の垂れ幕は、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、精巧に織り、長さは二十キュビトにしなさい。その柱は四つ、その土台も四つ。庭の周囲の柱はみな銀でつなぎ、その鉤は銀、その土台は青銅にしなさい」(出エジプト 27:16,17; 38:18,19)。

この垂れ幕は、善と真理の外観としては、さらに下級で外面的なものを表わします。これは第一天界の天使たちがいる最下的合理性です。この外観は、より内部のものに相応し、同じように描写されていますが、違いは、柱が金で覆われておらず、銀でつながれ、鉤が銀製であることです。この柱は直接的に科学知に起源をもつ合理的真理を意味します。青銅の土台は、自然的善を示します。

以上のように、主のみ国の天的なもの、霊的なものを表象しないものは何もありません。しかも三層の天界にある天的なもの、霊的なものすべての模表として造られていることです。ベールにしても垂れ幕にしても、内奥部の周りや外にある肉体または衣服のような意味をもっています。

⑧ その他、ベールや垂れ幕、衣服や衣装は、比較的下級の真理を意味します。

それは〈みことば〉の多くの箇所で明らかになります。

「あなたの帆は、エジプト産のあや布であり、・・・あなたの垂れ幕はエリシャの島々から来る青と紫の布である」(エゼキエル 27:7)。

「ツロ」がテーマになっています。ツロとは天的なもの、霊的なものにかんする内的認識、およびその認識をもっている人々を表わします(1201節)。「エジプト産のあや布」とは、科学知を指します。「エジプト」は科学知です(1164,

1165,1186,1462節)。「垂れ幕はエリシャの島々から来る青と紫の布」とは、内的信心に相応する祭儀を表わします(1156節)。

⑨ 同じく、

「海の君たちは、みなその座から降り、朝服を取り去り、縫い取りの衣服を脱ぎ、恐れを身にまとい、地に座するであろう」(エゼキエル 26:16)。

これも「ツロ」をテーマにしています。「朝服」とか「縫い取りの衣服」とは、科学知に根ざした認識を指し、結局はより下級の真理を表わします。

⑩ 同じく、

「縫い取りした着物を着せ、皮の靴をはかせ、細布をかぶらせ、絹のきれであなたをおおった。また飾り物であなたを飾り、腕輪をあなたの手にはめ、 鎖をあなたの首にかけ、・・・あなたは自分の衣をとって、自分のために、はなやかに色どった聖所を造り、その上で姦淫を行っている。・・・また縫い取りのある自分の衣をとって、かれらに着せた」(エゼキエル 16:10,11

16,18)。

上掲は、霊的教会である「エルサレム」に言及しています。むかしはどうであったか、後で倒錯した結果どうなったかを描きます。「縫い取りした着物」「細布」「絹」とは、より下級の霊的なもの、教義事項を表わします。

⑪ イザヤ書には、次のようにあります。

「万軍のエホバである主は、エルサレムとユダから、パンの支えと水の支えをすべて取り去られる。・・・その時、人はその父の家で、兄弟をつかまえて言う。あなたには衣服がある。わたしたちの司になってください、と。

・・・その日かれは言う。わたしはしばり役にはなりません。わたしの家にはパンも衣服もありません。わたしを立てて、民の司にしないでください、と。・・・主はシオンの娘らの頭を撃つ。・・・その日主は、かれらの美しい装身具を奪われる。すなわち、足首飾り、髪ひも、三日月形飾り、耳輪、 腕輪、ベール、頭飾り、すね飾り、飾り帯、香箱、守り袋、指輪、鼻輪、晴れ着、肩掛け、スカーフ、手さげ袋、薄織の上着、亜麻布の着物、ターバン、ストールを取り除かれる」(イザヤ 3:1,6,7,17-24)。

「エルサレム」とは霊的教会を示します。「ユダ」は天的教会です。「取り除かれるパンの支えと水の支え」とは、善と真理です。「司の衣服」とは、教義上の真理を指します。

列挙されている「シオンの娘たちの様々な衣装や装身具」は、取り去られる個々全体・種々様々な善と真理を指します。列挙されている一つ一つは、教会における特殊な何かを意味しないとしたら、〈みことば〉にはなりません。〈みことば〉の一語一語は神的です。「シオンの娘」についての修飾がありますが、これは教会に属する事柄が意味されています(2362節)。

⑫ 同じく、

「奮い立ち、奮い立って、力をまといなさい。シオンよ、栄光の衣をまといなさい。聖なる都エルサレムよ。無割礼の者、汚れた者は、あなたの中に攻め込むことは再び起こらない」(イザヤ 52:1,2)。

「シオン」とは天的教会を指します。「エルサレム」とは霊的教会です。「栄光の衣」とは、信仰の聖なる者たちを指します。同じく、

「かれらの織物は衣服にならない。かれらの業で身をおおうことができない。

かれらの業は不義の業である」(イザヤ 59:6)。

「織物」とは衣服にならない真理の模造品です。「衣服」とは教義の信心の外部的な真理を言います。したがって、「仕事で身を覆うことができない」ことになります。

⑬ 同じく、

「わたしはエホバにあって、大いに喜び、わが魂はわが神にあって喜び躍る。

主はわたしに救いの衣を着せ、正義の上衣をまとわせられた」(イザヤ 61:10)。

「救いの衣」とは、信仰上の真理を指します。「正義の上衣」とは、仁愛の善を指します。ヨハネの書には、次のようにあります。

「サルデスには、その衣を汚さない人が少数いる。かれらは白い衣を着て、わたしと共に歩む。かれらは、それにふさわしい者である。勝利を得る者は、白い衣を着せられる」(黙示録 3:4,5)。

また同じく、

「目をさまし、裸で歩かないよう、その着物を身に着けている者は、さいわいである」(黙示録 16:15)。

また同じく、

「その座に、二十四人の長老が、白い衣を身にまとっているのを見た」(黙示録 4:4)。

「衣」とは衣服のことでないのは明らかです。真理に属する霊的なものです。

⑭ 同様に、主が代の終わりについて、「衣服を取るために戻るな」と言われました(マタイ 24:18マルコ 13:16)。この箇所での「衣服」は真理を表わします

(2454節参照)。また「婚礼の衣装を着ていない人」(マタイ 22:11,12)もそうです。マタイによる福音書には次のようにあります。

「何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々は、王の家にいる。」(マタイ 11:8,ルカ 7:25)。

これは教義や信心の外的なものでなく、内部にあるものを指します。したがって、次のように、付け加えられています。

「何のために出てきたのか。預言者を見るためか。あなたがたに言うが、預言者以上の者である」(マタイ 11:9)。

「預言者」とは、教義と信心の外部的なものを指します。

⑮ 「衣服(着物)」とは、あらゆる種類の真理を指します。そのためイスラエルの子らは、エジプト脱出のとき、「たがいに金銀を求め、それを息子・娘たちに着せた」(出エジプト 3:22; 12:35,36)とあります。また「複数の種類の織物や、交ぜ織りの糸でできた衣類を着てはならない」ことになっていました(レビ 19:19; 申命記 22:11)。

⑯ 「衣服の裾に房をつけ、そこに青ひもをつけ、その房を見て、主のもろもろの戒めを思い起して、それを行いなさい」(民数記 15:38-40)とあります。

また昔は、衣服を裂くことをしました。ヨシュア 7:6士師記 11:35サムエル上 4:12サムエル下 1:2,11,12; 3:31; 13:30,31; 15:32列王上 21:27列王下 5:7,8; 6:30; 22:11,14,19イザヤ 36:22; 37:1にある通りです。衣服を裂くのは、教義や真理にたいする熱意を示します。それと同時に、衣服の装飾が示すようなものは、自分には何もないという謙遜を表わします。

⑰ またヤコブ、当時のイスラエルが預言したように、覆い、垂れ幕、衣服、着物には、そのような意味があります。

「かれはロバの子をぶどうの木につなぎ、その雌ロバの子を良質のぶどうの木につなぐ。かれはその衣服をぶどう酒で洗い、その着物をぶどうの血で洗う」(創世記 49:11)。

以上は何を意味するでしょう。「ぶどうの木、良質のぶどうの木、ロバ、雌ロバの子、ぶどう酒、ぶどうの血、衣服、着物」とは何かは、内的意味によらなければ、だれも理解できません。そこで「シロ」と呼ばれているのは、主であることは、明白です[訳注:創世記 49:10]。「ユダ」とは、主の天的神性を表象しているからです。「衣服はぶどう酒で洗われる」とか、「着物はぶどうの血で洗われる」とは、主の神化された合理性と自然性を意味します。

⑱ イザヤ書には、次のようにあります。

「ボズラから染め抜いた衣を着、エドムから来る者はだれか。かれは、装いも華やかに、数々の力をもって進んでくる。・・・なぜあなたの装いは赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のように赤いのか。わたしはひとりで酒ぶねを踏んだからだ。民らのなかでわたしと共にいる者はなかった。・・・かれらの勝利はわが衣にふりかかり、わたしは、わが装いをことごとく汚した」(イザヤ 63:1-3)。

「衣」や「装い」は、主の人間性を意味します。試練・誘惑の戦いと勝利を通して、主はご自分固有の力で、それを神化されました。「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだからだ。民らのなかでわたしと共にいる者はなかった」とは、そのことです。「イサクはエサウの着物のかおりをかぎ、祝福した」(創世記 27:27)にも同じような意味があります。

⑲ 主の神人性から出る聖性は、その衣であらわされます。ご変容にあたって、衣は光のように輝き、稲妻のように白かったとあります。マタイによると、

「イエスの姿は変わり、その顔は太陽のように輝き、その衣は光のように白くなった」(マタイ 17:2)。

ルカによると、

「イエスが祈っておられる間、み顔の様子が変わって、衣はまばゆいほど白く輝いた」(ルカ 9:29)。

マルコによると、

「イエスは変容されたとき、その衣は輝きを帯び、地上の布さらしでは白くできないほど、雪のように白くなった」(マルコ 9:3)。

アロンは、亜麻布でできたベールの中に入るときは、聖性の衣服を着けていました。これも同じ表象です(レビ 16:2,4)。聖職の聖性と同様、栄光と誉れとを表わす衣服もありました(出エジプト 28:2-終わり;39:1-終わり)。衣服で表象にならないものはありませんでした。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.