459. ここで次のメモをつけ加えておきます。第一。
わたしは遠方から、五つの学校(ホール)を見ました。それが各種各様の光を浴びていました。
一番目のものは赤い炎の色をしており、第二番目のものは黄色、第三番目は白色、第四番目は昼と夕の中間色、第五番目は、たそがれの中に建っていて、やっと見える程度でした。道々には、馬にまたがっている人、馬車に乗っている人、歩いている人、急ぎ走っている人がいて、まっ赤な炎色をしている第一番目の学校のほうへ向かっています。
見ているうちに、わたしはそこへ行って、どんな話をしているのか聞いてみたい欲求に駆られ、すぐ身仕度をして、第一番目のホールに向かって急ぐ人たちに合流し、かれらといっしょに中に入りました。
見るとそこには、大きな集会があって、一部の人たちは右側へ、一部の人たちは左側へ流れていって、壁に沿った席に座っていきます。前面には低い講壇があり、そこに議長の役を果たす人がひとり立っています。手に杖をもち、頭に帽子をかむり、学校と同じ炎色の光で染めた衣服を身につけています。
(2) 皆集まってから、その人は声を出して言いました。
「みなさん、きょうは『仁愛(カリタス)とは何か』について話しあうことにします。みなさんのうちでどなたか、仁愛はその本質面では霊的なのにたいし、実践面では自然的なのを、ご存じの方がいらっしゃいますか。」
すると、左側の第一列に座っていた人の中から立ち上がった人がいます。そこには、知者として有名な人た違いました。その人は、「仁愛とは、信仰によって、霊のインスピレーションを受けた倫理道徳のことであるというのが、わたしの主張です」と言ってから、それを説明し始めました。
「仁愛とは、信仰のあとについて行くことは、だれもが知っています。それは女主人のあとに、女従者がついて行くようなものです。信仰があれば、人は律法や仁愛の行いを、みずから進んで sponte 実践します。しかも律法や仁愛を生かしているのは信仰なのに、それに気づいていないのです。ということは、もしそれに気づいて行うとすれば、またその行いがもとで救われるとでも考えれば、信仰の神聖性(きよさ)を我欲で汚すことになり、信仰の力を弱める結果になるからです。以上は、われわれの教会の教義(ドグマ)です」(そこでかれは、自分の傍に座っている教職者のほうに目をやりましたが、教職者はそれにうなずいて見せました)。
(3)「それでは、その〈自発的にする仁愛 charitas spontanea 〉とは何でしょう。それは各自が幼児期から行い始めている道徳 moralitas のことです。これは、そのものとして自然的ですが、その行いに信仰の息吹がこもっている限り、霊的です。それでは、人の行いの中に、信仰があるかないか、つまり〈本人〉とその〈倫理生活〉のあいだを、どうやって区別したらいいでしょう。人は皆、道徳的に生活しています。それは、信仰を人の心に刻印された神だけがご存じで、神だけがこれを区別できます。
従って、わたしの主張はこうです。仁愛とは、信仰によって、霊の息吹きを受けた道徳のことです。そして信仰から出発し、そのぬくもりをもつ道徳は人を救いに導きますが、それ以外のものは、手柄を考えますから、人を救うものではありません。
ということで、仁愛と信仰を混同する人は、皆、油をこぼしてしまいます。つまりこの二つを表面的につけ加えるのでなく、内面からの結合にしてしまいます。これを混同したり、結びあわせたりするのは、立っている従者をうしろから主人もろとも馬車に押しこめてしまうようなもの、門番をつれてきて、晩餐会の席に貴賓といっしょに座らせるようなものです。
(4) そのあと、第一列の右側の席から、ひとりの人が立って、言いました。
「わたしの命題は、哀れみで鼓吹(こすい)された信心業こそ、仁愛であるということです。わたしがここで断言したいのは、謙遜な心からする信心業ほど、神のみ心をなだめるものはないということです。神が信仰と仁愛をくださるように、絶えず祈るのも、信心からきます。
主は言われました。
『祈りなさい。そうすればあなた方に与えられるであろう』(マタイ7:7)と。
与えられる以上、その中には、信仰と仁愛の両方が含まれています。『哀れみによって鼓吹された信心業こそ仁愛である』と言いましたが、それはどんなささげ心をもった信心にも、哀れみがあるからです。というのは、信心は、人の心を動かして、嘆きうめくようにしますが、それこそ哀れみです。祈ったあと、たしかにその哀れみが消えていきますが、祈るときは、また戻ってきます。戻ってくれば、その祈りの中には信心があり、これが仁愛になるのです。
わたしどもの祭司は、救いにいたらせるものは、全て信仰であって、仁愛によるものではないと言っています。従ってここでは、信仰と愛の両者を哀れみの心で祈る信心しかないということにはなります。〈みことば〉を読んで分かることは、信仰と仁愛の二つが救われるための手段ですが、教会の教職者たちに聞いてみると、信仰だけが唯一の手段であって、仁愛はそうではないと言います。それでわたしは、二つの岩礁のあいだで、大海を漂う船に乗っいる感じでした。もろくも難破しないためには、小舟に乗って脱出するしかありません。その小舟が信心業です。格別、信心にはどんなことにも、ご利益(りやく)があるということです。
(5) そのあと、第二列目の右側の席から、話し始めた人がいました。
「仁愛とは、正しい人にも、正しくない人にも、だれにでも善をするというのが、わたしの意見です。これをはっきりさせてみます。
仁愛とは、〈心がもつ善 cordis bonitas 〉以外のなにものでもありません。善い心の人は、善人にも悪人にも、皆に善くしたいと思います。主も、敵にたいして、善くしてやるよう言われました。ですから、ある人にたいして仁愛を示すことを拒めば、その部分での仁愛はゼロです。それは片足をあげ、片方の足だけで、ぴょんぴょん歩いている感じです。
悪人であっても、善人と同じ人間です。仁愛というものは、人間を人間として見るわけですから、その人が悪い人間だとしても、それがわたしと何の関係があるでしょう。仁愛は、太陽の熱と同じです。オオカミのような獰猛な動物も、ヒツジのような温順な動物も生かしています。またイバラのように有害な植物も、ブドウのように有益な樹木も成長させています」と。そう言って、新鮮なブドウの房を手にとり、
「仁愛とは、このブドウの房のようなものです。この房をばらすと、中身は全部流れ出てしまいます。」そう言って、裂くと中身が流れ出てきました。
(6) 話が終わると、左側の第二列目にいる別の人が立ち上がって言いました。
「わたしの主張は、仁愛とは親戚・友人にたいし、よくしてやることです。つまりこうです。仁愛は、自分自身から始まるということは、だれもが知っています。なにしろ、だれもが、自分にとって、自分こそ一番身近だからです。従って、仁愛は自分から始まって、身近な人たちへ及んでいきます。最初に兄弟姉妹へ及び、そこから親戚縁者に及んでいきます。このようにして、仁愛の波及性は、自分なりの限界をつくっています。その外にいる人たちは、他人です。つまり心から理解できない人たちなのです。いわば内部の人間にとって、未知の人たちです。それにたいし、血族や親戚同士は〈自然の力〉で、友人の場合は〈第二の自然の力〉で結ばれ、こうして、最も身近な人になっています。
仁愛は、自分と相手を内部から一つにし、その結果、外部もそうなります。内部から一つになっていない場合、それはただ、付き合いの相手でしかありません。
ご存じのように、トリはその羽毛からでなく、鳴き声で見分け、お互いが近づくと、それぞれ体の中から、いのちの霊気(スフェア)が発散します。それで情愛が分かり、そこから結びつきが行われます。
トリの場合、それを本能と呼んでいます。人間も同じように、自分の家族や身内のそばにいると、そのような情愛がわきます。それこそ人間本性のもつ本能なのです。
同類 homogeneum をつくりあげるのは、血以外のなにものでもありません。人間の心、つまりそれは人間の霊でもありますが、それは同類を嗅ぎわけ、感じとります。仁愛の本質は、その同類意識であり、同感なのです。その反対が、異質意識 heterogeneum で、そこから反感が生まれます。それは血が続いていないわけで、従って仁愛もありません。馴(な)れこそ第二の天性で、それが同類意識もつくります。ということで、仁愛は親しい人たちによくしてやることです。
海上で、ある港に近づき、その地が外国で、そこにいる住民のコトバも習慣も分からないと知ったら、自分にとってアカの他人なので、その人たちを愛するよろこびはありません。それが祖国だと聞き、そこにいる住民のコトバも習慣も知っていれば、自分にとっては身内なので、愛するよろこびを感じます。このよろこびこそ、仁愛のよろこびです」と。
(7) すると、第三列目の右に座っている人が立ち上がって、大声で言いました、
「仁愛とは、貧しい人たちを恵み、乏しい人たちを助けることというのが、わたしの意見です。これこそ本物の仁愛です。そのわけは、これが、神の〈みことば〉の教えで、そのみ教えには矛盾がないからです。
富める者や資産家を助けるのは、虚栄です。そこには仁愛などなく、あるのは見返りへの夢です。隣人愛がもつ純情などあろうはずはなく、にせものの情愛でしかありません。これは地上で幅をきかせても、天界では無意味です。ということで、欠乏とか貧困には、手をさしのべなくてはなりません。しかもそこには、見返りへの期待は何もありません。
わたしが住んでいる町では、だれが人格者で、だれがそうでないかが分かります。街路で乞食が目にとまると、立ちどまって恵んでやる人は皆人格者ですが、そばに乞食がいても、見て見ぬふり、声を聞いても聞こえぬふりをして、通り過ぎる人は、皆いい加減な人です。それで、人格者には仁愛がある反面、そうでない人には仁愛がないことは、だれが見ても分かります。貧しい者に恵み、乏しい者を助ける人は、飢え渇いているヒツジを水と牧草地のあるところへ連れていく羊飼いのようです。富者や資産家にだけ貢(みつ)ぐ人は、デアスタ神を拝んでいる感じです。満腹し酔払っている者に、料理と酒を出しています。
(8) そのあと、第三列の左側にいる人が立ち上がって言いました。
「わたしの主張はこうです。つまり、仁愛とは、病院・療養所・孤児院・簡易宿泊所を建て、寄附によってそれを維持していくことです。その理由はこうです。このような慈善や援助は公的(おおやけ)ですから、私(わたくし)的なものより何倍もすぐれています。だから仁愛の程度も大きく、善益もいろいろです。その種類も多様だし、〈みことば〉での約束による報いも、あふれるほどです。だれでも畑を耕してタネを蒔けば、それだけ収穫もあります。これはつまるところ、大がかりな貧民救済ではないでしょうか。世間からの誉れも得られるし、お蔭をこうむった人たちの謙虚な感謝の声、賞賛も受けられます。こうして、人の心を高め、仁愛と名のつく情愛も、精一杯伸ばすことになります。
街路を自分の足を使うのでなく、車で走っている金持ちは、塀にそって座っている者たちに目もくれないし、小銭を手渡すこともありません。だけど金持ちは、大勢の人に役立つ仕事にオカネを使っています。もちろん、街路を歩いては、食物がない人たちに、他の恵み方をしている人も、少しくらいはいますが。」
(9) そこまでくると突然、同じ席の一人が、もっと大声で、今までの人の声を圧するように言いました。
「だけど、貧乏人が貧乏人に恵んでやる施しに比べて、金持ちがやっている仁愛のほうが、優秀で偉大だと思わないでください。施しをする人は皆、自らの分に応じて施しをしていることは、たしかです。国王は国王なりに、知事は知事なりに、将校は将校なりに、兵は兵なりにします。仁愛そのものを評価するのには、その施し主の人物的優秀性や施し物によるのではなく、施す人の情愛の豊かさによります。従って、財を投じ遺産を寄贈する大金持ちより、小銭を差し出す下僕のほうが、大きな仁愛の心でほどこしているのかも知れません。つまりです。
「イエスは金持ちたちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見、またある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て、言われた、『よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた』と」(ルカ21:1-3)。
(10) それからまた、左側の四列目の人が立って言いました。
「わたしが言いたいのは、仁愛とは、教会堂を建て、それに仕える牧師によくしてあげることです。理由はこうです。そのような人は、心のうちに神聖なことを思い、その神聖な想いから物事を行うわけで、それが自分のささげ物をきよくします。これは、仁愛からくる要請です。しかも仁愛そのものは、神聖です。教会堂の中で行われる信心業は、どれもこれも神聖なわざです。主は言われます。『わたしの名によって、二人または三人が集まる所に、わたしもその中にいる』と(マタイ23:20)。
しかも祭司たちは、主のしもべとして、祭儀を行います。だから結論はこうです。すなわち、祭司のためとか会堂のために奉納したものは、他の人や他の目的で使われるものより、ずっとすぐれているということです。しかも牧師には、祝福する力がさずけられていて、その力で奉納されたものを聖化します。自分がささげたものが、神聖になるのを目撃することより、心を広くし、うれしくするものはありません。」
(11) そのあとで、第四列目の右側にいた者が口を開きました。
「わたしの考えでは、仁愛とは、初代のキリスト教的兄弟愛です。そのわけは次の通り。
本当の神に仕える教会はみな、仁愛を出発点にします。初代のキリスト教ではそうでしたが、お互い仁愛によって心をひとつにし、大勢が一つのことを行いました。だから、かれらは互いに、「兄弟」と呼び合いましたが、それもかれらにとっての〈神イエス・キリスト〉における呼び名です。当時は野蛮な異邦人によって取り囲まれ、恐れていたこともあって、自分たちの財を使って、共同体を作って交わりました。
それが出発点になって、かれらは皆、心を一つにしてよろこびを分かち、自分たちの〈救いの神・イエス・キリスト〉について、毎日集まって話し合い、仁愛をもとにした昼食会や夕食会を行い、そこで兄弟愛も生まれました。
そのような時代も終わり、分離が始まりました。いよいよアリウスのいまわしい異端が起こって、「主の人間性が神である」という考え方を失う人が多くなりました。同時に、仁愛は姿を消し、兄弟愛も霧散(むさん)していきました。たしかに、真理のうちにいて、主を礼拝し、主のご命令を実行する人は、皆兄弟です(マタイ23:8)。ところがこれは、霊にあっての兄弟のことです。現代ではむしろ、この霊にある人が見あたらないため、お互いに兄弟と呼びあう必要もありません。
兄弟愛も唯一の信仰からしかきません。救いの神である主以外の他の神を信じていてはダメで、それでは兄弟愛は生まれません。なぜなら、その兄弟愛をつくっていく仁愛が、ほかの信仰にはないからです。だからわたしは、結論として申しあげます。初代のキリスト教的兄弟愛は仁愛でしたが、それも今は過去のもので、現在はありません。いずれ回復するときがくると、予告しておきますが。」
そう言いおわったとき、東がわの窓を通して、燃えるような光が現れ、その人の頬を照らしました。集まった人たちは、それを見て、びっくりした様子でした。
(12) 最後になって、第五列目の左側から立ちあがった人がいました。そして直前に言った人のコトバに少しつけ加えていいか尋ね、同意を得たので話しました。
「仁愛とは、人の罪を赦すことだと、わたしは考えます。これは、聖餐式に向かう人たちが普通口にするコトバで、そのとき人は、仁愛の義務を完全に果たしたいと思い、友だちにたいし、『わたしが悪かったことを赦してください』と言います。
わたしは、自分なりに考えたことですが、これはただ仁愛をかたどったシンボルで、仁愛の本質を表す現実の〈かたち〉ではありません。人を本当に赦さずにそれを口にしたり、仁愛を追及する努力もせずに、言ったりする場合もあるし、主が『父よ、わたしたちに悪いことをする人を赦すように、わたしたちの悪いことを赦してください』と教えられた祈りと同列には、とても考えられません。
罪とは潰瘍(かいよう)のようなもので、切開して治療しないと、そこにウミがたまって、近辺を浸蝕し、ヘビのようにあちこちうろついては、血液を腐敗させます。隣人にたいする罪も同じで、悔い改めによって取り除き、主の戒めに従って生活しない限り、居座り、潜伏するわけです。悔い改めないまま、主に向かって、自分の罪を赦してくださるよう、祈るだけだと、街で伝染病にかかった人のようです。かれらは役場の頭のところへ行って、『上(うえ)様、わたしたちを癒してください』と言います。それにたいし役人は、「癒すだって。医者へ行き、治療法を教わり、薬局へ行ってクスリを買って飲みなさい。そうすれば治る」と言います。真実の悔い改めもなく、罪の赦しを願う人にたいし、主は言われます。
『〈みことば〉をひもとき、イザヤ書の中で語られているところを読みなさい。「重い罪悪で悪くなった民よ、わざわいだ。・・・あなた方は手を伸べても、わたしは目をおおって、あなた方を見ない。多くの祈りをささげても、わたしは聞かない。・・・自分を洗いきよめ、わたしの目の前から、あなた方の悪業をとり去り、悪を行うのを止めなさい。そして、善を行うことを学びなさい。そうすれば、あなた方の罪は消され、ゆるされる」(イザヤ1:4、15-18)』と。
(13) 以上のような話があってから、わたしも手をあげました。そして、旅行者だけれど、自分の考えを言っていいかどうか尋ねたところ、議長はそれを提案し、同意が得られたので、わたしは言いました。
「わたしの主張はこうです。仁愛とは、あらゆる仕事や職業の中で、〈公正な判断 judicium を伴った正義の愛〉から、物事を行うことです。しかもその愛は、〈神である救いの主〉からしか来ません。右側の列に座っておられる方の話も、左側の列に座っておられる方の話も聞きました。どれもこれも仁愛にかんしては、聞きなれた内容です。ただし、この集まりの始めに議長が言われたように、仁愛はその起源では霊的ですが、それが派生してくると自然的になります。自然的仁愛でも、内部が霊的なら、天使たちの眼前では、ダイヤモンドのように透明です。ところが内部が霊的でなく、ただ自然的なものに過ぎない場合、天使たちの目には、料理されたあとの魚の目のように真珠色をしています。
(14) わたしはここで、みなさんが順序よくお話になった周知の仁愛論について、それが霊的仁愛のもとでインスピレーションを受けているかどうかを、申しあげる筋合はありません。しかし、ここでわたしが申しあげることは、霊的な仁愛は、自然的な〈かたち〉を帯びるはずではありますが、その〈かたち〉の核になる霊的なものは何かということです。
自然的な〈かたち〉の中にある霊的なものとは、〈公正な判断を伴った正義の愛〉から物事を行うことです。つまり仁愛を実践するにあたって、人はそれが正義 justitia をもとにして、行っているかどうかです。これは公正な判断 judicium から物事を行うことです。というのは、人は善を行う様子をして、悪を行うことができるし、悪い行いに見えることをして、善を行うこともあり得るからです。
例えば、金の使い道を尋ねないで、困っているというだけでお金を渡すと、その男が強盗で、庖丁を買うかも知れません。助ける側は、外見上の善で、悪いことをしたことになります。あるいは刑務所から囚人を連れだし、森の方へ行く道を教えたらどうでしょう。『あの男が強盗をやっても、わたしの知ったことか。わたしはただ人を助けただけだ』で済むでしょうか。
もう一つの例ですが、無精(ぶしょう)者に、あえて仕事をさせないで、金を与え保護し、『わたしの家で部屋に入って、寝床で休んでいなさい。自分を疲れさせることもなかろう』と言ったとすると、その人の怠惰を助長させることになります。あるいはまた、自分の親戚・友人で、正義感がない人を名誉職に挙げたりすると、その職権を乱用して、いろいろな悪策が温存されるようになります。仁愛のわざと思えても、このようなことは、〈公正な判断を伴った正義の愛〉から出たものではないことは、だれでも分ります。
(15) その反対のこともあります。すなわち、一見悪いことをしているようで、善いことをする場合です。犯人がいて、涙を流し、哀れみの声をはずませ、自分も隣人だからと言って、判事に赦しを乞い、その判事が犯人を放免したらどうでしょう。
ところが判事は、その犯人に法律に従って罪を申し渡し、その男がこれ以上悪いことをしないよう、また何よりの隣人である周りの社会に害悪を及ぼさないよう、また自分も不正な判決を下さないようにすることは、仁愛の行いをすることになります。だれもが知っていることですが、悪いことをしたら、しもべが主人に、子供が親に、叱られるのは当然です。地獄には、悪事への愛をもった者がいて、皆閉じ込められていますが、それも同じです。悪事を働けば罰せられますが、これは矯正のために、主がお許しになっていることです。それは、主が正義そのものだからです。そして何をなさるにも、公正な判断そのものからなさいます。
(16) 前述したことについて、その理由がここではっきりします。霊的仁愛というものは、公正な判断を伴った正義の愛からきます。しかもその愛は、〈神である救いの主〉からしか来ません。そのわけは、仁愛がもっている善は、全て主によるものだからです。次の通りです。
『わたしのうちにとどまる者には、わたしもその人の中にとどまる。そしてその人は、多くの実 を結ぶようになる。わたしによらなくては、あなた方は何ひとつ出来ない』(ヨハネ15:5)。
『天にも地にも、いっさいの権能はご自分にある』(マタイ28:18)。
〈公正な判断力を伴った正義の愛〉は、天界の神からしか来ません。神こそ、正義そのもので、 そこからすべての公正な判断が生まれます(エレミヤ23:5、33:15)。
(17) 以上のことから、結論として言えることは、こうです。右側と左側の座席から、仁愛についていろいろ言われてきました。『仁愛とは信仰によって鼓舞された倫理道徳のことである』とか、『あわれみで鼓吹された信心業である』とか、『正しい人にも正しくない人にも、善をすることである』とか、『親族・友人に何としてでもよくしてやることである』とか、『貧しい人たちに恵み、乏しい人たちを助けることである』とか、『病院を建て、寄附でもって維持していくことである』とか、『教会堂を建て、それに仕える牧師を援助することである』とか、『初代のキリスト教的兄弟愛である』とか、『だれにでもその人の罪を赦すことである』とかです。以上のことは全て、〈公正な判断を伴った正義の愛〉から出るものである限り、すぐれた意見です。そうでない場合、仁愛にはなりません。源泉から切断された河川、樹木からえぐり取られた枝です。
ということは、純粋な仁愛とは、主を信じること、あらゆる仕事や職業の中で、〈正当で合法的な行いをする juste et recte agere 〉ことです。従って、主を源(みなもと)にして正義を愛し、公正な判断でその正義を実践する人こそ、仁愛(カリタス)のイメージと似姿とを宿していることになります。」
(18) そう言い終わると、沈黙が続きました。それは、内部の人間をもとにして見通し、そうなのだと認めていても、外部人間ではまだの状態を表します。わたしはかれらの顔つきで、それが分かりました。わたしはそのとき、突然かれらの視界から取り去られ、霊の状態から、自分の物的肉体に戻りました。自然の人間は、物的肉体を身につけているので、霊の人間には見えません。つまり、霊や天使には見えないし、われわれにとってもかれらが見えません。