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マタイによる福音書 7:23

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23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

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神の摂理 #330

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330. それで、一般に知られている意味での予定説がどれほどいまわしいものか分かっていただくため、次の四項目をとりあげ、はっきりさせていきます。

第一。天界への予定以外の予定は、神の愛とその愛の無限性に反する。

主なるエホバは神の愛です。しかもその愛は無限であり、あらゆる〈いのち〉の存在です。また小著『神の愛と知恵』の中で証明したように、人は神の似姿として、神の像になるよう創造されました。さらに人はみな神の似姿として神の像になるよう、その母胎にいるとき主によって形づくられるわけですから、主こそすべての人間にとっての天界の父であると同時に、人はその父の霊的子供です。〈みことば〉には、主なるエホバは、そう呼ばれ、人間もそう呼ばれています。したがって、「地上のだれをもあなたがたの父と呼んではならない。なぜならあなた方の父は、ただひとり、天にいます父である」(マタイ23:9)とあります。

これは〈いのち〉の面での父は、ただひとりであり、地上の父親は〈いのち〉の覆い、つまり肉体の面での父にすぎないということです。天の父はその〈いのち〉をひん曲げてしまうようなことはしません。人間はみなその父から生まれた子供であることは、〈みことば〉の多くの箇所にはっきり記されています。

2. ですから神の愛は、善人にも悪人にもすべての人に及んでいます。したがって主は神の愛ですから、それは地上の父親が自分の子供たちにたいしてもつ関係以上です。しかも神の愛は無限ですから、無限にそれ以上です。そして人それぞれの〈いのち〉は、ご自身の力によるわけですから、どんな人からも手を引かれません。悪人からは手を引かれるように見えますが、むしろ悪人のほうが手を引くわけです。それでも主はかれらを愛によって、導いておられます。主は言っておられます。

「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見出だされる。叩け、そうすれば、開けられる。:::自分の子がパンをくれと言っているとき、あなたがたの中、だれがその子に石を与えるだろう。:::悪いあなたがたでさえ、自分の子にいいものを与えるのに、天にいますあなたがたの父は、ご自分に求めてくる者にたいし、よいものを与えないはずはないではないか」(マタイ7:7-11)。

またその他にもあります。

「善人にも悪人にもご自分の太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも、雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)。

主が万人の救いを望んでおられ、だれ一人死ぬのも望んでおられないことは、教会では周知のことです。ですから天界以外のところへ予定されることなど、神の愛に反することは、以上のことからも明らかです。

3. 第二。天界への予定以外の予定は、神の英知とその英知の無限性に反する。

神の愛は、ご自身の神としての英知をとおして、人間ひとりひとりが救われる手段を配慮しておられます。前述したように、神のみ摂理には限りない英知が含まれていて、人間みなにたいし、救いの手段を考慮しておられます。ですから天界以外のところへの予定などと言うと、その手段についての考えが及ばないと言っているのと同じです。

万が一救われない人がいるとすれば、それは人が天界の幸福と至福を自分のものとして感じとることを神のお望みなのに、その自覚がないため、天界が与えられないということから、起こりうることです。つまり人が見かけ上自力で考え、自力で望むようになっていないと、それが実現しないわけです。その見かけがないと、人は何も自分のものとして同化しないし、人間が人間であるためにもそれが必要です。神のみ摂理とはそれです。つまり神の愛から出る神の英知なのです。

4. とは言っても、〈すべての人が天界に予定されていて、地獄に予定された人はいない〉という真理は否定できません。万が一、救いへの手だてがないというのであれば、その真理を否定することになり、話は別です。ところが前述したように、救いへの手だては、人間ひとりひとりに配慮されており、善良な生活を営んでさえいれば、どの宗教の人でも天界で自分の場所を占めることができるようになっています。

人間は、あらゆる種類の果実をみのらせる土地のようです。その生産力があるからこそ、土地は土地です。悪い果実を実らせることがあったにしても、よい果実を実らせる可能性がある以上、悪い実しかならない土地だとは言えません。人間はまた光線を自分の中で変えてしまう物体のようです。にぶい色に変わったとしても、光のせいではありません。光線は美しい色に変わることも可能です。

5. 第三。教会の内部に生まれた人だけが救われるという考えは狂信的な異端である。

教会外で生を受けた人も、教会内で生を受けた人と同じく人間です。その生命の期限は天界にあり、生きた不滅の霊魂をもっています。かれらなりの宗教があり、それによって神の存在をみとめ善良な生活を営むことを知っています。前述したように神をみとめ善良な生活を営むなら、それなりの段階で霊的になり救われます。このような人々は、洗礼は受けていないかも知れませんが、洗礼は本人が霊的に洗い清められていること、つまり再生している場合の印であり記念です。

6. 主はかれらにとって知られていませんし、主なくしては救いもありません。しかしだれかが救われるのは、主を知っていることによるのでなく、主の戒めにしたがって生活することによります。それに神をみとめる人は、主が(マタイ28:18およびその他のところで)教えておられるように、だれでも天地の神が主であることをみとめます。

それだけではありません。教会外の人は、キリスト教徒より、神を人間の姿で考えています。神を人間の姿でとらえている人たちは善良な生活を営み、主によって受け入れられます。キリスト教徒とちがって、神を人格においても本質においても一つの方であると認めています。日常生活で神について考えますが、それは悪いことが神に反する罪になると思うからです。そう思っている人は、日常生活の中で神について考えていることになります。キリスト教徒にとっては宗教的戒めというと、〈みことば〉をもとにしていますが、その〈みことば〉から生活上の戒めを汲みとっている人はわずかしかいません。

7. ローマ:カトリックの人たちは〈みことば〉を読みません。仁愛から切り離された信仰をもっている改革派の人たちは、生活にかかわる教えに耳を傾けず、信仰のみです。ところが実際は、〈みことば〉のすべては、生活上の教義以外の何ものでもありません。キリスト教はただヨーロッパだけですが、イスラム教や異教は、アジア、印度、アフリカ、アメリカに行きわたっています。地球上で人類が占める部分からいうと、キリスト教が占める部分の人類に比べて、人口において十倍以上です。したがって、前者が呪われ、後者だけが救われると考えたり、天界へ行ける人が出生で決まり、本人の生活によらないと考えるのは、どんなにバカげているかお分かりでしょう。主は言っておられます。

「あなた方に言うが、:::東や西から多くの人々が来て、天界の国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに座につくが、国の子たちは外に投げ出されるであろう」(マタイ8:1112)。

8. 第四。人類の中のある人が、予定によって罰せられるとする考えは残酷な異端である。

主は、愛そのもの慈悲そのものです。その主が、膨大な数の人間が地獄に行くために生まれるものとなさったり、何百万何千万の人が生まれつき呪われ罰せられている、つまり悪魔やサタンとして生まれてくるものとされるなど、信じるだけでも非情です。しかも、善良な生活をし神をみとめた人たちが、永遠の火と拷問にわたされないよう、神の英知によってそれを配慮なさらないとしたら、これもまた信じるだけでも残酷です。

主はすべての人にとっての創造主であり救い主です。すべての人を導いておられるのは、主おひとりです。だれの死をも望んでおられません。ですからこれほど数の多い民族と国民が、ご自分であらかじめ定められたご意向と照覧の下で、悪魔の餌じきにわたされるなど、考えたり信じたりすることこそ残忍なことです。

  
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Many thanks to Arcana Press for their permission to use this translation online.