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白い馬 #1

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1. ヨハネの黙示録には、霊的・内的意味の〈みことば〉が記されています。

「わたしは天界が開くのを見た。すると見よ、白い馬がいて、それに『忠実なる者』および『真実なる者』と呼ばれる人が乗っていた。その人は正義によって裁き、戦う人である。その眼は燃える火のようである。その頭には多くの王冠があって、ご自分にしか分からない名前が記されており、血染めの衣服を身につけていた。その名は『神の〈みことば〉』である。純白の麻衣を身につけた天軍が、白い馬に乗って、かれに従った。その方の衣服には、腿の部分に『王の王、主の主』と記されていた」(黙示録19:1112131416)。

以上の一語一語にはどんな意味があるかは、内的意味によらなければ、だれも分かりません。明らかにされたことは、その一つ一つが、表象的であり、含意的であることです。

天界が開く、白い馬、それに乗った人、正義によって裁き戦う、眼は燃える火のようである、頭には多くの王冠がある、ご自分にしか分からない名前が記されている、血染めの衣服を身につけている、白い馬に乗ってかれに従う天軍、純白の麻衣を身につけている、衣服の腿の部分に「王の王、主の主」と記されている、などです。

これは〈みことば〉であるとはっきり言っていますし、〈みことば〉は主です。なぜなら、かれの名は「神の〈みことば〉」であるとあるからです。だからこそ、「その方は衣服の上、腿の部分に 「王の王、主の主」と名が記されています。単語の一語一語を解釈すると、記されていることは、〈みことば〉の霊的・内的意味です。

天界が開くとは、天界では〈みことば〉の内的意味が見通され、地上にいて天界が開いている人たちによっても、見通されていることを表象し、意味します。白い馬は〈みことば〉のより内的なものを理解する力を表象し、意味します。白い馬にそのような意味があることは、続く言葉で明らかになります。白馬にまたがっているのは、〈みことば〉の面での主、つまり〈みことば〉であることは明らかです。なぜなら、その方の名は「神の〈みことば〉」とあるからです。また、忠実なる者、正義において裁く方とあるのは、善に根差しての呼称であり、真実なる者、正義において戦う方とあるのは、真理に根差しての呼称です。というのも正義とは、主ご自身のことだからです。

眼が燃える火のようであるとは、その方の〈神的愛に属する神的善〉に由来する神的真理を意味します。その頭にある多くの王冠とは、信仰に属する〈あらゆる善と真理〉を意味します。ご自分しか分からない名前が記されているとは、〈みことば〉の内的な意味の性格について、ご自身とご自身が啓示される人以外には分からないということです。血染めの衣服を身につけているとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字のことです。白い馬に乗って、かれに従っていく天界の軍団とは、〈みことば〉のより内部の意味を理解している人のことです。純白の麻衣を身につけているとは、〈善に根差した真理〉の中にある人のことです。その方の衣服とその腿の部分に、「王の王、主の主」と記されているとは、真理と善およびその性格のことです。

今まで述べたことと、それに先行・後続することから分かるのは、教会の末期にいたって、〈みことば〉の霊的意味すなわち内的意味が開かれるということです。ただしそのとき何が起こるかは、同章の17、18、19、20、21節に記されています。そこにある言葉の意味を、ここで説明する必要はないでしょう。なぜなら一語一語について、『天界の秘義』に記されているからです。

たとえば次のようなことです。主は神の真理ですから〈みことば〉です(25332803288452727835節)。〈みことば〉は神の真理です(469250759987)。馬に乗っている方は、正義によって裁き、戦うとありますが、それは主が正義だからです。また主が正義であるといわれるのは、ご自身の力によって人類を救われたからです(1813202520262027971598091001910152)。なお正義は、主だけにあてはまる功績です(97159979)。

燃える火のような眼は、〈神の愛に属する神の善〉に由来する神の真理を意味します。なぜなら、眼は理性と信仰の真理を意味するからです(27014403-44214523-45346923905110569)。燃える火は、愛に属する善です(9344906521563146832)。頭にある王冠は、善のすべてと信仰の真理のすべてです(11438586335664098639865986898739905)。ご自分以外にはだれも知らない名前が書かれているとは、〈みことば〉の内的意味のことです。これもご自分以外にはだれも知らず、ご自身がみずから啓示されたことです。すなわち名前とは、ものの性格を示します(144145175418962009272430063237342166749310)。

血染めの衣服を身にまとうとは、暴虐が加えられた〈みことば〉の文字を意味します。というのも、衣服は真理を意味するからです。つまり善を覆う衣服のことです(1073257652485319595492129216995210536)。真理といってもまず、究極末端の真理ですから、文字上の〈みことば〉です(5248691891589212)。また血は、偽りによって真理に加えれた暴虐を意味します(3741005473554769127)。

天界の軍勢が白馬にまたがってその方の後に従うとは、〈みことば〉の内面を理解している人のことです。軍勢は、天界と教会の真理と善の中にいる人を意味します(3448723679888019)。そして馬は理性を意味します(321753216125640065216534702481468381)。白は天界の光の中にある真理であって、内面的な真理のことです(3301399340075319)。純白の麻布でできた衣を身につけている者とは、善に根差した真理の中にいる人たちのことで、それは麻布、あるいは上質の麻布は、天界に起源をもつ真理を意味し、その起源は善に根差した真理のことだからです(55199469)。

衣服の上と腿の部分に名前が記されているとありますが、これは真理と善のことで、またその性格を表します。というのは衣服は真理、腿の部分は愛に属する善を意味するからです(302142774280996110488)。王たちの王、主たちの主とは、主の神的真理と神的善のことです。主とは、神の真理に根差した王のことです(300950686148)。また神の善に根差した主のことでもあります(497391679194)。

以上から、〈みことば〉の霊的・内的意味とはどんなものか、また天界と教会に属する霊的なものを含まない単語は、そこには一つもないことがはっきりします。

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天界の秘義 #6148

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6148. 「かれは、祭司の土地だけは、買い取らなかった」とは、自然性に根ざす内部のものが、善を受け入れる能力を手に入れたこと、しかもその能力が自分自身の力によるものであることを意味します。その根拠は次の通りです。

「かれ」とあるのは「ヨセフ」ですが、「ヨセフ」は、前述のように、内部のものを指します。「土地(土)」とは、6135-6137節で触れたように、真理の受け皿で、ここでは善を受け止める能力を指します。能力とは、受け止める可能性のことで、受け皿が受け皿になるため必要な可能性です。その能力は、善に由来します。換言すれば、善を介して、主に由来します。

主から、愛の善が流入として注がれなければ、真理にしても、善にしても、人は受け止める能力がありません。主から愛の善が流入として注がれ、その結果、人の内部で受け止めるよう、万事が整えられます。「エジプトに土地(土壌)があった」のは、自然性に根ざす〈善を受け止める能力〉を示します。「エジプト」とは、科学知の面からみた自然性を意味するからです(6142節)。

「祭司(職)」は、これから述べるように、善を意味します。「買い取らない」とは、そのような能力を、自分のものとして同化しないことという意味です。かつては、その受け皿もろとも、諸真理と真理の諸善を、自分のものとして同化しましたが、それは荒涼と養いがあってこそ起こったことです。なぜなら、当該の能力は、自分自身、つまり内部のものの力に依存したからです。

したがって、「祭司たちの土地だけは、買い取らなかった」とは、内部のものが自然性に根ざして、善を受け止める能力をみずから獲得したという意味になります。その能力は、自らのものだからです。

② 事情を説明すると、次の通りです。真理と善を受け止める能力が、人にあるとすれば、それは直接的に主からくるもので、その能力を獲得するため、人の力を借りることは、決してありません。ところで、善と真理を受け止める能力は、いつも人に備わっています。理性と意志は、その能力に根ざしています。

人が悪のほうに身を転じると、善や真理を受け止められません。その際、能力はあっても、思考や感覚に向かう入口が閉ざされています。そのようなわけで、人が悪に身を転じ、〈いのち〉と信仰の力を借りて、その悪に身を固めれば固めるほど、真理を見る能力、善を感じとる能力は、それだけ失われていきます。

真理と善を受け止める能力にたいして、人はまったく無力であることは、教会の教義からも知られています。信仰上の真理にしても、仁愛上の善にしても、人の力によるものは何もなく、主のみ力によるという教えです。人は、自分にあるそのような能力を根絶させることが可能なのです。

自然性に根ざす内部のものが、善を受け止める能力を自力で獲得したのは、その能力が自らに依存するためであるとは、どのような意味か、ここで明らかになります。「自然性に根ざす」とあるのは、主からの善の流入が、内部を通過して、主から、自然性にたいして注がれるからです。そこで受け止める能力を獲得したとき、流入が注がれます。受け止めが成立するのは、そのときです(5828節)。

③ 「祭司」は諸善を意味しますが、忘れてならないことは、主から発出するものには、善と真理という二つがあることです。「祭司」は〈神の善〉の表象、「王」は〈神の真理〉の表象でした。そのため「祭司たち」とは諸善を意味し、「王たち」は諸真理を意味します。主について述べるさいの祭司職や王職については、1728,2015,3670節を参照してください。

古代の表象的教会では、祭司職と王職の二つは、ひとりの人格の中で結ばれていました。主から発出する善と真理は、一体化していたからです。また天界における天使たちのもとでも、結ばれていました。

④ 古代教会で、以上の二つが結ばれたひとりの人格は、メルキゼデク、すなわち「正義の王」という名前の人でした。メルキゼデクは、アブラハムのもとに来ましたが、かれについては次のようにあります。

「サレムの王メルキゼデクは、パンとブドウ酒とを持ってきた。かれはいと高き神の祭司である。かれはアブラハムを祝福した」(創世記 14:18,19)。

メルキゼデクは、祭司と王の両面で、主を表象していました。かれは王であったと同時に祭司でしたし、アブラハムを祝福し、パンとブドウ酒を献じることが許されていました。パンとぶどう酒は、〈愛の善〉と〈信仰の真理〉両方のシンボルだったわけです。両方の面で主を表象していたことは、ダビデの書からも明らかです。

「エホバは、誓いを立てられた。エホバには、後悔はない。あなたは、メルキゼデクの位にしたがって、永遠にいたる祭司である」(詩篇 110:4)。

上掲は、主について言われています。「メルキゼデクの位にしたがって」とは、王と祭司であることです。つまり最高の意味で、そのお方から、〈神の善〉と〈神の真理〉が一つとなって発出することを意味します。

⑤ ヤコブの子孫のもとに、表象的教会が設立され、こうしてまた、一つのものとして主から発出する〈神の善〉と〈神の真理〉は、ひとりの人格の下に結ばれ、表象的に表わされました。

しかし当初、該当の民の行った戦いや偶像崇拝がもとで、その二つは分裂しました。民を支配したのは、指揮官 でしたが、後に、士師 になりました。聖なる儀式をつかさどっていた人は、祭司と呼ばれ、アロンの子孫、つまりレビ族出身者でした。しかしやがて、エリやサムエルの場合のように、二つのものがひとりの人格に統合されました。

しかしこの民のもとでは、偶像崇拝が支配的となったため、表象的教会 の成立は不可能となり、たんなる教会における表象物 になりました。その結果、二つは分裂を余儀なくされ、〈神の真理〉の面で主を表象するのが王であり、〈神の善〉の面で主を表象するのが祭司になりました。

これは民のわがままから出たことで、主の思し召しによって起こったことではありません。エホバがサムエルに言われた〈みことば〉から明らかです。

「民の声に従って、あなたに向かって言った事をすべて行いなさい。かれらはあなたを退けるのでなく、わたしがかれらの王にならないよう、わたしを退けるのである。・・・かれらに、王政の権利を認めてやりなさい」(サムエル上 8:7-終わり;12:19,20)。

⑥ 以上の二つは、分離されてはなりません。なぜなら〈神の善〉から切り離された〈神の真理〉は、人をみな断罪することになりますが、〈神の善〉に結ばれた〈神の真理〉は、人を救うからです。人が地獄の断罪を受けるとすれば、それは、〈神の真理〉によります。しかし〈神の善〉によって、地獄を逃れ、天界に挙げられます。

救いは、慈悲によるものです。つまりは、〈神の善〉によって救われます。人がその慈悲を拒否し、みずから〈神の善〉を排除し、〈神の真理〉の裁きに身をゆだねるとき、それが断罪につながります。「王」が〈神の真理〉を表象することについては、1672,1728,2015,2069,3009,3670,4575,4581,4966,5044,5068節を参照ください。

⑦ 「祭司」は、〈神の善〉の面から見た主を表象します。祭司が善を意味することは、アロンおよびレビ族を祭司職に認定した内的意味上の経緯から、すべて明らかです。大祭司だけが至聖所に入ることができ、そこで儀式を執行しました。またエホバの聖なるものは、祭司のためでした(レビ 23:20; 27:21)。

「かれらは、分け前や嗣業をもたない。エホバこそ、かれらの分け前であり、嗣業である」(民数 18:20申命記 10:9; 18:1)。

「レビ人は、長子の代わりとして、エホバのものである。エホバがアロンに与えたものである」(民数 3:9,12,13,40-終わり,8:16-19)。

「大祭司は、レビ人とともに、幕屋を張り、出発するときに、宿営の真中にいなくてはならない」(民数 1:50-54; 2:17; 3:23-38; 4:1-終わり)。

「アロンの子孫の中で、燔祭や犠牲をささげるために近づく場合、だれしも傷をもった者であってはならない」(レビ 21:17-20)。

それ以外に、レビ記 21:9-13を含め、他にも多くの箇所があります。

⑧ 以上のすべては、最高の意味で、主の〈神の善〉を表象します。またそれに関連して、愛と仁愛の善を表わします。聖性の衣服と呼ばれたアロンの衣服は、〈神の善〉に依存する〈神の真理〉を表わします。それについては、神なる主の慈しみに頼って、出エジプト記で、説明することにします。

⑨ 「王」は真理を意味し、「祭司」は善を意味します。〈みことば〉では、多くの箇所で、王と祭司を登場させます。ヨハネの書には次のようにあります。

「イエス・キリストは、神であるご自分の父のために、われわれを王とし、祭司として下さった」(黙示録 1:6; 5:10)。

「王」と言われるのは、信仰上の真理に根ざし、「祭司」と言われるのは、仁愛の善に根ざしています。前述の通り、主のうちにある人々は、天界の天使のように、真理と善が結ばれています。「王とされ、祭司とされる」には、そのような意味があります。

⑩ エレミヤ書には次のようにあります。

「その日、次のことが起こる。・・・王と司たちとは、その心を失い、祭司たちは仰天し、預言者は驚く」(エレミヤ 4:9)。

同じく、

「イスラエルの家は、恥じをかく。かれらの王たち、司たち、祭司たち、預言者たちもみな、そうである」(エレミヤ 2:26)。

同じく、

「ユダの王たち、その司たち、祭司たち、預言者たち、エルサレムの住民」(エレミヤ 8:1)。

上掲では、「王たち」とは、諸真理を、「司たち」とは、最重要の真理を(1482,2089,5044節)、「祭司たち」とは、諸善を、「預言者たち」とは、教える人たちを意味します(2534節)。

⑪ それ以外にも、次のことは知っておく必要があります。「ヨセフは、祭司たちの土地を買い取らなかった」とは、真理と善を受け止める能力は、すべて主に依存するという事実の表象でした。モーセの書には、レビ人の畑について、同様の律法があるところから、明らかです。

「レビ人たちの町々の周囲にある畑は、売ってはならない。それはかれらの永久の所有だからである」(レビ 25:34)。

愛と仁愛の善を示す〈教会の善〉は、主おひとりの所有であるため、だれも自分のものとして権利を主張してはならないわけです。

  
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天界の秘義 #5044

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5044. 「獄屋の管理人は」とは、試練・誘惑の状態において、真理が統治することを指します。「管理人」とは、主要な真理、つまりは統治する真理を意味するためであり、これについては、以下で述べます。

「獄屋」とは、偽りの荒廃、しかも試練・誘惑を意味します(5038,5039,5043節)。はじめに試練・誘惑における統治する真理とは何かを述べておきます。試練・誘惑に遭遇する人には、かならず主から真理の流入があります。これは人の考えを支配統治するものです。その流入は、当人が疑いに陥ったり、絶望に瀕したりする度毎に導きを与えます。その統治的真理とは、本人が〈みことば〉から教わり、自分が確信した真理です。

そのとき、他の諸真理も思い出されますが、本人の内部を統治するようなものではありません。統治的真理と言っても、理性の目前に姿をあらわさないこともあります。漠然とした薄闇に隠れながらも統治しています。主の神性は、その暗がりに流入を注がれ、こうして本人の精神の内部を維持されます。したがって、その暗がりが光に照らされると、試練・誘惑の中にいる人は慰めを得、心を軽くされます。

② 主が試練・誘惑にある人々を統治される際、その手段となるには、上掲の真理それ自身ではなく、真理への情愛です。神性の流入は、ただ情愛に属することがらの中にしか注がれません。人の内部に植えられ根づかされた真理は、情愛をとおして植えつけられ、根づかせられます。情愛によらないで、植えられ根づかされることはありません。

情愛をとおして植えられ根づかされた真理は、そこに固着し、情愛をとおして想起されます。こうして真理が想起されるとき、真理に結びついた情愛が姿を見せます。その情愛は、人にとっての相互補足的情愛です。

試練・誘惑に遭遇する人には、以上のようなことが起こります。したがって人が成人に達し、統治可能な真理を吸収するようになるまでは、霊的試練・誘惑にさらされることは許されません。それ以前に試練・誘惑にさらされると、屈服してしまいます。そうなると、本人にとって、後の状況は、以前より悪くなります。

ここで、「獄屋の管理人」が演じる統治的真理、すなわち試練・誘惑の状態における統治的真理とは何かが、明らかになります。

③ 「管理人」とは、主要真理を指します。内的意味では、「王」は、真理それ自身を指します(1672,1728,2015,2069,3009,3670,4575,4581,4789,4966節)。

「管理人」は、王の管理人であり、王の真理に属する主要なものを指します。管理人(司、長) には、そのような意味があることは、1482,2089節を参照。その箇所では、〈みことば〉の箇所から示したわけではないため、ここに引用します。イザヤ書には次のようにあります。

「一人の男の子がわれわれのために生まれた。われわれに息子が与えられた。かれの肩には主権 があり、・・・平和の君 と称えられる。その主権と平和とは、終わりがないであろう」(イザヤ 9:6,7)。

上掲は主についての言及です。「その肩には主権がある」とは、諸天界におけるあらゆる〈神の真理〉は、その方によることを指します。諸天界は、善に由来する諸真理にしたがって、主権(支配、管理、統治)が区分されています。そのため、天使たちは、主権者 と呼ばれています。

「平和」とは、諸天界における至福の状態を指します。それは末端部による善と真理を感化します(3780節)。そのため主は、「平和の君」と称えられます。「その主権と平和とは、終わりがない」とは、そのことです。

④ 同じく、イザヤ書には次のようにあります。

「ゾアンの君たちも、賢者たちも、パロの議官たちも愚かである。・・・あなた方は、どうしてパロにむかい、わたしは賢者たちの息子、古代の王たちの息子であると言えよう。・・・ゾアンの君たちは愚かとなり、ノプの君たちは騙(だま)された。諸部族の隅の石であるエジプトを迷わせた」(イザヤ 19:11,13)。

上掲は、教会の科学知を意味するエジプトをテーマにしています(4749節)。これは、秩序の末端である自然的真理です。そのため、ここではエジプトを「諸部族の隅の石」と呼んでいます。「部族」とは、真理の総体を一括して示すものです(3858,3862,3926,3939,4060節)。

上掲での「エジプト」は、教会の諸真理を倒錯させた科学知を意味します。「ゾアンの君たち、またノプの君たち」とあるように、その諸真理は、秩序の末端部で虚偽化された諸真理です。

「古代の王たちの息子」と自称しているのは、その科学知が古代教会の諸真理に由来するものだからです。前述の「王たち」とは、その諸真理を指し、「古代の王たち」とは、古代教会の諸真理です。

⑤ 同じくイザヤ書からです。

「アッスリヤは正しくは考えず、その心も正しいことを思わず、むしろその心を滅ぼそうとし、少なからぬ諸民族を倒そうとする。かれは言う。わが君たちはみな王ではないか、と」(イザヤ 10:7,8)。

「アッスリヤ」とは、神の諸真理を詭弁的に推論することであり、それに由来する偽りであり、結果的には、倒錯した合理性を指します(1186節)。したがって、虚偽化された諸真理、すなわち諸偽りです。「わが君たちは、みな王ではないか」と言っているのは、詭弁的推論によって、諸真理が偽りとなりながらも、真理そのもののように見えることを言います。

「アッスリヤ」とは、詭弁的推論です。また「君たちや王たち」は、主要な偽りであり、それが正真正銘の真理であると信じられます。ただし精神が、歴史的な文字上の意味にとらわれている間は、それが見えないし、信じることもできません。ましてや神の〈みことば〉の中に、現れてくる文字以上に、普遍的で聖なるものが内在している事実を否定するなら、そうなります。

しかし内的意味でアッスリヤとは、〈みことば〉における合理性であり、詭弁的推論です。「王たち」とは諸真理そのものであり、「君たち」とは真理の枢要(すうよう)部です。

天界では、アッスリヤがどこかなど無視されています。天使たちは、王や君の概念を念頭から捨て去ります。人の中にその概念を感じ取ると、それを主に向かって移行させ、それを主から発出するもの、天界における主に属するものとして感じとります。すなわち、主の〈神の善〉のみ力に依存した〈神の真理〉だからです。

⑥ 同じく、イザヤ書です。

「アッスリヤは、剣で倒れるが、人の剣ではない。人の剣ではない剣が、かれらを食い尽くす。・・・かれらの岩は、恐れのあまり過ぎ去り、その君たちは、慌てて旗を捨てる」(イザヤ 31:8,9)。

上掲は、エジプトをテーマにします。エジプトは、教会の倒錯された科学知を指します。「アッスリヤ」は、神の諸真理についての科学知による詭弁的推論、それに由来する倒錯であり、虚偽化を指します。アッスリヤが倒れた剣は、真理と戦い、真理を荒廃させる偽りです(2799,4499節)。

同じく、イザヤ書には次のようにあります。

「その君たちが、ゾアンにあっても、パロの力は、あなた方の恥となり、エジプトの陰にある信頼は、不名誉となる。」(イザヤ 30:3,4)。

「ゾアンにある君たち」とは、虚偽化された諸真理を指しますが、前述のように、結局は偽りです。

⑦ 同じくイザヤ書です。

「タカと、ヤマアラシとが、そこを占拠し、フクロウとカラスがそこに住む。その上に空しさの測りなわを張り、荒廃の振り子をさげられる。貴人はそこにはおらず、国と呼び、その君たちはみな失せる」(イザヤ 34:11,12)。

「タカ、ヤマアラシ、フクロウ、カラス」とは、〈みことば〉にある神の諸真理がないがしろにされる際、出現する諸種類の偽りを指します。「測りなわ」そして「振り子」とは、真理の荒涼と荒廃を意味します。「君たち」とは、かれらにとっての主要真理となる諸偽りを指します。

同じく、イザヤ書です。

「わたしは聖所の君たちを汚し、ヤコブを全滅させ、イスラエルに汚名を着せる」(イザヤ 43:28)。

「聖所の君たちを汚す」とは、聖なる諸真理を指します。「ヤコブを全滅させ、イスラエルに汚名を着せる」とは、外部教会および内部教会の真理を根絶することです。「ヤコブ」は外部教会、「イスラエル」は、内部教会を表わします(4286節参照)。

⑧ エレミヤ書には次のようにあります。

「ダビデの座にすわる王、司たちは、車とウマに乗って、この町の門から入るであろう。それはかれら自身とかれらの君たちである」(エレミヤ 17:25)。〈みことば〉を歴史的意味でしか理解しない人は、「王たち、司たちが車とウマに乗ってこの町の門から入る」とは、王国の存続を指しているとしか思わないでしょう。ただし以上の記述を越えて、さらに深く、しかも聖なるものが、この中に含まれていることには、気づかないでしょう。

ところが内的意味上、町とは何を指し、王たちとは何のことで、君たちとはだれで、ダビデの座とは何を意味し、車とウマに乗ってくるとは何を指すかを知れば、そこには、さらに深く聖なるものがあることが見えてきます。

「町」すなわち「エルサレム」とは、主の霊的王国を指します(2117,3654節)。「王たち」とは、前述のように〈神の諸真理〉です。「司たち」とは、主要な真理を指します。「ダビデの座」とは、主の天界です(1888節)。「車とウマに乗ってくる」とは、教会の理知的・霊的なものを意味します(2760,2761,3217節)。

⑨ 同じく、エレミヤ書には次のようにあります。

「カルデヤ人の上に、・・・バビロンの住民の上に、その司たちの上に、その賢者たちの上に、また嘘つきの上に、剣あれ。・・・そのウマの上と、その車の上に剣あれ」(エレミヤ 50:35-37)。

「剣」とは、偽りに対抗して戦う真理、および真理に対抗して、これを荒廃させる偽りを指します(2799,4499節)。「カルデヤ人」とは、諸真理を冒涜する人々であり、「バビロンの住民」とは、善を冒涜する人々です(1182,1283,1295,1304,1307,1308,1321,1322,1326,1327節)。「司たち」とは、偽りを指しますが、これはかれらにとって、主要な諸真理になります。「ウマ」は教会の理知的なもの、「車」はその教義事項、「ウマの上と車の上に剣あれ」とは、教義事項の荒廃を指します。

⑩ 同じく、エレミヤによります。

「主は、その怒りによって、シオンの娘を黒雲でおおわれた。・・・主は、ヤコブのすべての住居を滅ぼして哀れまず、その怒りによって、ユダの娘のとりでを壊して地に投げ、その王国と司たちを汚された。・・・門は地に埋もれ、貫の木は砕かれた。王と君たちは、諸民族異邦人の中にいる」(哀歌 2:1,2,9)。

「シオンとユダの娘」とは、天的教会を指します。ここでは壊滅した教会を指します。「王国」とは、教義上の諸真理を指します(2547,4691節)。「王」は真理それ自身を指し、「司たち」はその主要的な真理です。

⑪ 同じく、

「飢餓の嵐によって、皮膚は炉のように黒くなった。シオンの女たち、ユダの町の乙女たちは犯され、司たちは、かれらの手で、吊り刑にされた」(哀歌 5:10-12)。

「かれらの手で吊り刑にされた司」とは、冒涜された諸真理を指します。宙吊りにすることは、冒涜の呪いを表わしました。宙吊りにそのような表象的意味があったため、定めでもありました。

「民がバアルペオルにつきしたがって不倫を働き、かれらの神々を拝んだので、司たちは、太陽が沈むまえ、吊り刑にされた」(民数 25:1-3,4)。

「バアルペオルにつきしたがって不倫を働き、かれらの神々を拝んだ」とは、信心の冒涜でした。

エゼキエル書には次のようにあります。

「王は悲嘆に暮れ、司たちは失望し、地の民の手は震える。わたしはかれらの行いに従って裁く」(エゼキエル 7:27)。

同様に、「王」とは真理一般を、「司たち」とは、主要的真理を指します。

⑫ 同じく、エゼキエル書には次のようにあります。

「司は、かれらの真中にあって、肩に背負われ、暗闇に乗じて出て行く。かれは壁に穴をあけ、そこから出て行く。顔を覆い、かれはこの地を目で見ない」(エゼキエル 12:12)。

上掲の「司」とは、明らかに、実際の司のことではなく、教会の真理を意味します。司が「暗闇に乗じて、肩に背負われ、出て行く」とは、「暗闇」とは偽りを意味し、能力をすべてつかって、諸偽りの間に迷い込むことを言います。「顔を覆う」とは、真理が全く見られないようにすることです。「この地を目で見ない」のは、教会が存在しなくなることです。「地」とは教会を意味することは、662,1066,1067,1262,1413,1607,1733,1850,2117,2118,2928,3355,4447,4535節を参照。ホセア書には次のようにあります。

「イスラエルの子らは、王も、君も、犠牲も、柱も、エポデも、テラピムもないまま、多くの日々を過ごすであろう」(ホセア 3:4)。

⑬ ダビデの書には次のようにあります。

「王の娘は、殿の内部で栄えをきわめ、金糸を織り込んだ衣を着、刺繍のついた衣を着て、王のところに導かれる。・・・あなたの息子たちは、父祖に代わり、あなたはかれらを全地にわたり、司にするであろう」(詩篇 45:13,14,16)。

「王の娘」とは、主の霊的王国を意味します。主の霊的王国と言われているわけは、主の神的真理の力によるためで、「金糸を織り込み、刺繍のついた衣」とは、その神的真理です。「息子たち」とは、主の神性に依存する王国の諸真理で、すなわち「司」であり、主要な諸真理になります。

新しいエルサレム、および新しい地での司やかれの所有については、エゼキエル書 44:3; 45:7,8,17; 46:8,10,12,16,18; 48:21に記されています。「司」とは、主の神性の力による真理一般を指し、「新しいエルサレム」、「新しい神殿」、「新しい地」とは、諸天界と地上における主のみ国です。〈みことば〉の他の箇所で、どのような表象を用いているかが、そこで浮き彫りにされます。

  
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