Bible

 

申命記 34

Studie

   

1 モーセモアブ平野からネボに登り、エリコの向かいのピスガの頂へ行った。そこでは彼にギレアデの全地をダンまで示し、

2 ナフタリの全部、エフライムマナセの地およびユダの全地を西のまで示し、

3 ネゲブと低地、すなわち、しゅろのエリコの谷をゾアルまで示された。

4 そしては彼に言われた、「わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに、これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである。わたしはこれをあなたのに見せるが、あなたはそこへ渡って行くことはできない」。

5 こうして主のしもべモーセ主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ。

6 主は彼をベテペオルに対するモアブの地の谷に葬られたが、今日までその墓を知る人はない。

7 モーセは死んだ時、二十歳であったが、はかすまず、気力は衰えていなかった。

8 イスラエルの人々はモアブ平野三十の間モーセのために泣いた。そしてモーセのために泣き悲しむはついに終った。

9 ヌンのヨシュアは知恵の霊に満ちた人であった。モーセが彼の上にを置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、モーセ命じられたとおりにおこなった。

10 イスラエルには、こののちモーセのような預言者は起らなかった。モーセを合わせて知られた者であった。

11 エジプトの地で彼をパロとそのすべての家来およびその全地につかわして、もろもろのしるしと不思議を行わせられた。

12 モーセイスラエルのすべての人の前で大いなる力をあらわし、大いなる恐るべき事をおこなった。

   

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Eyes

  
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It's common to say “I see” when we understand something. And indeed, “seeing” in the Bible represents grasping and understanding spiritual things. So it makes sense that the eyes, which allow us to see, represent the intellect, which allows us to understand spiritual things. This can also be used in the negative, of course; the Bible speaks of people having eyes and refusing to see, and the Lord when He was in the world advised plucking out an offending eye. These represent a refusal to acknowledge truth, or being misled by falsity.