6400. 「ウマのかかとを噛み」とは、最低の自然に由来する錯覚を意味します。その根拠は次の通りです。「噛む」とは、固着し、危害を加えることです。「ウマのかかと」とは、自然の最低部からくる錯覚を意味します。「かかと」には、最低の自然的なもの、物体的なものを指し(259,4938-4952節)、「ウマ」は理知的なものを指します(2761,2762,3217,5321,6125節)。ここでの「ウマ」は、自然と感覚の最低部に属する理知性ですから、錯覚です。
真理のうちにありながらも、まだ善のうちにはない人々は、最低の自然からくる錯覚に漬かっています。真理の側や真理の中に、善が存在しないなら、真理は、光によって照らされることがありません。
善は、みずから光を投射する炎に似ています。善がある種の真理に遭遇するとき、善は真理を照らすだけでなく、真理を善みずからの光の中に、つまり善に導き入れます。ところが真理のうちにありながら、まだ善のうちにいない人の場合、当人は影の中、暗がりの中にいます。真理は、自らの力による光をもっておらず、善から提供される光はよわよわしく、まるで消えかかった明かりのようです。
したがって、真理について考え、推論し、またその真理にもとづいて、善について考え、推論する場合、当人は、暗がりの中で幻影を見ているようで、幻の物体がそこに実際にあると思います。影の中で、壁に映った〈ものかげ〉を見て、その幻影をとおして、その〈ものかげ〉から、人や動物のイメージをつくり上げています。しかし光が射してくると、自分の抱いたイメージとは違う〈ものかげ〉であることが見えてきます。かれらの場合、真理についても、同じことが言えます。真理ではないものを真理と見ます。これは壁に映った〈ものかげ〉と同じ幻影に過ぎません。
〈みことば〉に由来する真理のうちにありながら、善のうちにはない人々とはこんなふうです。その中からあらゆる種類の異端が、教会内に生まれました。異端説は、自分では全くの真理と見えながら、教会内では以上のような偽りになります。その異端を広めた人々は、善のうちにいませんでした。その証拠として、信仰の真理から、仁愛の善を遠くへ投げ捨て、仁愛の善といっさい共鳴しない教義を、部分的に捏造したのを見れば分かります。
② 真理のうちにありながら、いまだに善のうちにはいない人々は、真理についても、善についても、最低の自然に根ざした錯覚によって、詭弁的推論を行います。だからこそ、錯覚 について述べることにします。
人間の死後の〈いのち〉を例にあげると、真理のうちにありながら、まだ善のうちにいない人はそうですが、最低の自然に根ざした錯覚に漬かっていて、自分の肉体による以外の〈いのち〉が人に備わっているのを信じません。人が死ぬと、本人は、自分の肉体を再び身につけるのでなければ、復活はありえないと思っています。
肉体内で生きているのは、内部の人間です。肉体が死ぬと、主のみ力で復活します。そのとき霊や天使が帯びているような体を身につけ、現世で人が、見、聞き、話し、他人と交際すると同じように、あい変わらずの人間です。しかも自分には、完全に一個の人間として映っています。そう言われても、かれらには理解できません。最低の自然に根ざす錯覚があるため、そのようなことはあり得ないと思います。
③ こうなると、霊や霊魂について考えたとしても、自然の中にある未発見のものなら別として、概念形成がまったく不可能です。そのため霊魂を、呼気であるとか、空気状のもの、エーテル状のもの、炎のようなものと考え、あるいはまた、肉体の結合を前にした、活力の乏しい純粋思惟(しい)のようなものと考えます。より内部にあるものはみな、陰影か暗闇であるのにたいし、外部だけが、光の中にあるため、以上のように考えます。この種の人間が誤謬に陥るのは、どれほどたやすいかは明らかです。
次のように考えるだけでも分かります。死体の再合成はどうなるのか、この世の滅亡を何世紀も待ったがムダだった、動物も人と違わない生命をもっている、この世に現れて自分の〈いのち〉の現状を報告する者はいないなど、あれこれ考えれば、たやすく復活信仰を捨ててしまいます。それ以外にもいろいろあります。
かれらが不信仰なのは、善のうちにおらず、善をとおして、光の中にいないためです。以上のような状態にあるため、「乗る者は、後ろへ落ちる。エホバよ、わたしはあなたの救いを待ち望む」と記されています。主が助けてくださらなければ、後退するしかないという意味です。